2012年11月22日木曜日

なぜ「嫌い・ダメ」なのか――「悪の教典」はたしかに気持ち悪い映画だけど


© 2012「悪の教典」製作委員会

“つまり今回の大島号泣の一件も、仕込みではあったが、関係者のほとんどが何も知らされていなかったため、結果的に大混乱を招いてしまったということなのだろう。”
サイゾーウーマンでこう解説されている、「『悪の教典』AKB48特別上映会」での大島優子号泣、中座事件。このニュースが流れる前に本作を観ていた私としては、「話題作りかもしれないなぁ」とも、「本当に気持ち悪くなって中座したのが本当かもしれないなぁ」とも思った。
 
 本作は、生徒にも同僚にもウケのいい高校の英語教師・蓮見が実はサイコパスで、自分の悪事を隠すために、学園祭の準備で泊まり込んでいたクラスの生徒たちを朝までに全員殺そうとする話だ。海猿のさわやかマッチョイメージを覆そうと伊藤英明君ががんばって主演している。
 私は原作は読んでいないのだが、とても気持ち悪い、後味のよくない映画だった。

 そりゃそうだ。高校生が次々にショットガンで殺されていくんだから、気持ちがいいはずがない。

 この中座事件の日、大島優子はこういうコメントを残している。
「わたしはこの映画が嫌いです。命が簡単に奪われていくたびに、涙が止まりませんでした。映画なんだからという方もいるかもしれませんが、わたしはダメでした。ごめんなさい」
こんなふうに「“私は”ダメ」と言われてしまうと、「そんなのおかしい」と言えなくなるが、ただエンターテインメントに関わる身であることを考えれば、これをマジで言ってるのなら問題ありだろう。(当日、配給の東宝が「真実は映画を見て判断してほしい」とコメントしているあたり、話題作りの色合いも濃い気はするのだが、その真偽は分からないのでこれ以上は触れない)。
 生徒が次々に殺されていく様を観ていて気持ちいいはずはない。だが、そもそも人が死ぬ映画なんていっぱいある。現実に人は死んでいる。殺されている。ではなぜ“この映画はダメ”ということになるのだろうか。

 現代の日本が舞台で、若い高校生が殺されるからなのか。
 じゃあ日本人じゃなければどうなんだろう? 高校生じゃなければ? さらに言えば、殺されるのが人間じゃない生物ならどうなんだろう?

 そういうことではないのだろうか。

 嫌なことから目を背ける権利も、観ない権利もある。
 でも、たとえそれがフィクションであっても「観たくない」なんて、女優が言ってていいのだろうか。フィクションの力、演技の力、映画の力というものを信じてないのだろうか。女優としてのプライド、矜持は上映終了まで自身を席にとどめるほどではなかったのだろうか。
 メンタルからイヤだと言うのは簡単。プレイヤーなんだから、ロジカルに、クリティカルに考えて発言してほしいと思う。

 それと、最後の「ごめんなさい」は制作陣に対してなのだろうか。「なんで謝るの?」「何に対して謝るの?」という謝罪をテレビでよく聞くので、ちょっと疑問に思った。


 私の感想としては、結構面白かったと思う。何度も書くように、気持ちのいいものではないが、あやしげな、不吉な雰囲気はよく出ている。気味が悪い。最後の校内の殺戮は三池節というのか何なのか、イケイケの軽い感じはしたが、勢いもあいまってカタルシスを覚えてしまう人もいるだろうと思う。倒れた宇宙飛行士の人形を戻すところとか、細部の演出にこだわりは見られたのだけれど、もっと蓮見の人物像や、形成された過程、現在の心の中の風景を、音楽とあやしげな画による雰囲気だけではなく、演出・描写で観たかった気はした(そもそもサイコパスの心の中をロジカルに理解できるのか?とも思うが)。あと伊藤君は頑張っていたけれど、もう一つ何か足りなかった気がする。それが何か、演技の善し悪しをうまく説明できないので分析できないけれど。

 続編は観てみたいと思う。

 


その他最近、試写で観た映画。

「ライフ・オブ・パイ トラと漂流した227日」
 インドからアメリカへの航海中、大嵐で投げ出され、1匹のトラと救命艇で生き延びた男の話。トラはほとんどCGというからすごい。話のあらすじがトンデモな感じだが、そのトンデモな設定の勝利でもある。原作がどうなのかは知らないが、主人公が不思議な体験をして生き延びる話だからか、神や宗教についてのセリフや描写が多いし、海での様子がとてもスピリチュアルに描かれていて、それが強過ぎる気がする。もうちょっとサバイバルのための工夫を丁寧に描いても良かったのではないか。3Dの必要性はない気がした。ただドキドキハラハラしながら、楽しんで観ることはできます。「観るんじゃなかった」とは思わないでしょう。

パイの物語(上) (竹書房文庫)  パイの物語(下) (竹書房文庫)

「ねらわれた学園」
 ご存じ眉村卓の名作ジュブナイル[『ねらわれた学園 』 を現代に置き換えたアニメ映画。まゆゆが声優をつとめたことや主題歌をsupercellが作ったことなどで話題になりました。現在、公開中です。原作は結構昔のものなので、現代に置き換えるにあたって携帯電話を使い、コミュニケーションのあり方について一石を投じている。その点について、もっと考えさせる描き方をしてほしかった。絵づくりの面では、逆光やレンズフレアが過剰すぎる気がした。もちろん狙ってやっているのだろうけど、なぜだろう。新海誠さんの作品が好きな方はいいのかもしれないと思った。

 

「塀の中のジュリアス・シーザー」
 ベルリン国際映画祭で金熊賞を受賞したタヴィアーニ兄弟が監督・脚本を務め、アカデミー賞外国語映画賞・イタリア代表作品に決定した本作。ローマ郊外のレビッビア刑務所で、受刑者たちが、一般人に見せるために演劇「ジュリアス・シーザー」を上演することになり、稽古が進むうち、囚人たちは次第に役と同化。刑務所がローマ帝国のようになっていく。日本でありがちな、素人が頑張って一つのことに打ち込んで、涙あり笑いありで苦難を乗り越えて最後は団結して終わり、みたいなコメディじゃない点は評価できるが、ちょっとおカタすぎる。エンターテインメントというよりアート、いやエクスペリメンタル、実験的な映画という感じ。シェイクスピアはおさえとかないといけないなと思わされた。








2012年11月15日木曜日

ガンダムは日本製とは限らない――『僕ジム』を読んで

 常見陽平さんの『僕たちはガンダムのジムである』(ヴィレッジブックス)を読んだ。


 ガンダム世代には釈迦に説法だが、ジムとは、「機動戦士ガンダム」に出てくる地球連邦軍の量産型モビルスーツだ。


 見ての通り、ガンダムっぽいけどガンダムでは決してない、”その他大勢キャラ”だ。

 キャリアに関して多数の著書のある常見さんの書籍だけに、そのタイトルを聞いた時、なんとなく内容に予想はついた。コントでいえば“出オチ”というか、見た瞬間に狙いの方向性が分かった。だから自分もファーストガンダムは好きではあるものの、「多分こういう内容だろうから買わなくてもいいかなぁ」と思った。

 しかし以前いただいた『キャリアアップのバカヤロー』はためになったし、『親は知らない就活の法則』も仕事の上で参考になった。それに「常見さんだからきっと、そんな容易に想像できる内容で終わってるはずはない」と思い、買ってみた。

 


 結論からいうと、最初に抱いた心配は杞憂に過ぎなかった。

 私は仕事で学生や留学生の就職難、転職難の情報に触れていることもあって、ある部分では「分かる分かる」と思いながら、一気に読み終えた。もちろん著者のように専門的にキャリアについて研究しているわけでもないので、新たな発見もたくさんあったし、「いい言葉だなぁ」と付箋をつけたページもたくさんあった。

今さらな部分もあるかもしれないが、たとえば……

  • 頼まれた仕事は天職だ
  • やらされた仕事があなたを強くする
  • 「居場所×担当業務×ポジション」
  • 創造的ルーチンワーク
  • 「いいじゃないか、やりたいことが見つからなくたって」

 などなど。
 ほかにもあるのだが、ちょっとでも気になったら手に取って損はないと思う。特にこれから就活をする学生、あと就職したばかりの20代の社会人は、これを読んで自分のポジションを確認し、進む道、戦略を考えるといいのではないだろうか。そして「できること」の先にある「すべきこと」を考え、見つけようと行動することだろう。

 いい本を読むと、「自分もやらなきゃなぁ」「このままじゃイカンなぁ」と思う。
 誰もが思う。 けれども行動にはなかなか移せない。移しても、続かない。

 本書が説いているのは、「自分はジムであり、ガンダムにはなれないが、他のジムとどうやって差別化しようかと考えるべき」ということだ。ガンダムになれないことは認めても、そこで「ジムのままでいい」と思っていいという訳ではない(これは何もジムであることを否定しているわけではない)。
  
 日本は既にGDPで中国に追い抜かれた。それでもまだ、貯金で逃げ切れる世代が支配している。若い人たちは、将来が明るいとは思っていない。日本が経済的にもっと豊かになるとは思っていない。豊かになるためにいろいろなものを犠牲にするくらいなら、ならなくていいと思っている(そもそもそれは成熟の一つの段階なのかもしれない。いいのか悪いのか、分からない)。

 そんな状況の中で、何をどう頑張ったらいいのか分からない。途方に暮れて、あきらめてしまいそうになる。諦めてしまっている人たちもいる。だから筆者は「はじめに」で本書について「ついつい自信をなくしてしまいつつある、地道に働く会社員たちに対するエール」と書いている。『僕ジム』は時代が求める処方箋であると思う。

 「どうせ自分なんてジムだし」と思うことはないし、思っていても始まらない。現状を認識する、己を知るということは、自分がどう伸びたいかを考えるために必要だ。「ガンダムになれる」とは思わなくても、「ジム・カスタムになろう」とか「ガンタンクを目指しちゃうぞ」だっていいはずだ。

 また「僕らはジムだ」と言い切ることには、“意識の高い学生”の話ではないが、多くの人が陥っている勘違いを正す意味もある。
 若い時は誰しもが、自分がひとかどの人間になれると思いがちだが、多くは幻想だ。そして今はソーシャルメディアのため(せい?)か、ジムの多くがガンダムと気軽に接することができるようなった。ジムがガンダムを身近に感じられる時代、CDを買えばアイドルと握手ができる時代でもある。教育現場でも平等であることが重視され、区別することをよしとしない風潮がある。「あの子はガンダムだから。でも君はジムだから」なんて言えない。だからジムの多くが根拠もなく「おれもガンダムになれんじゃね?」と思う。その思い込みが自分の能力を高めることもあるが、ほとんどのジムに対して、「いやいやおめぇは違うから。ガンダムにはなれねぇから」と教えてやるのは、余計なお世話ではない。ジムのためにもなるのだ。

 最近、私は日本人の学生よりも外国人留学生と接することが多い。バイトもいるし、正社員もいるのだが、彼らの貪欲率はかなりのものだ。日本という外国に留学に来ている時点でそれなりに行動的ではあるわけだが、日本の会社に出入りして、選ばれていることもあって、能力も高い学生が結構いる。彼らを見るにつけ、外国人を採用で差別している企業はホントにアホだと思うし、日本の若者は、競争相手が彼らだということを認識しているんだろうかと心配になる(とか書くと、おめぇもだと言われそうだけど)。

 これからジムは、外国製のガンダムのために働くことだってあることを認識しておかなければいけない。外国企業の日本買いが、青い目をしたハゲタカファンドによるそればかりでないことは、ご案内のとおりだ。今まで自分のことをガンダムになれる存在と思っていて、かつ根拠もなく新興国の若者をジムだと思っていた日本のジムが、新興国からやってきたモビルスーツ(もしくは指揮官)の下で働くことになる。自分がガンダムではない事実を認めたうえ。よそから来た主人公のために。たとえ自分がジムであることを認めても、ガンダムが日本製(日本人)とは限らないということも忘れてはいけない。

 「だから何?」と思える人はいい。まだ社会人になってないような若い世代がどうかは知らないが、すでに働き始めてかなりの年月がたった中年世代は困るだろう。誰も「おめぇはガンダムじゃねぇ」と言ってもらえない、でも逃げ切ることもできない世代。きっと外国製のガンダムの下で働くことをすんなりと受け入れられないのではないかと思う。

 きっと、そんな時代はすぐそこまで来ている。逃げ切れると思っている世代の多くが、逃げ切れないだろう。逃げ切ることを考えるのはよしたほうがいい。「逃げよう」と思っている時点でもう旗色はかなり悪い。ほうほうのていで逃げたところで、その先に楽園はない。

 ところで本書の帯には「量産型人材として生き抜いてきた著者による」とはある。だが、「常見さんはジムじゃないじゃんよ」というツッコミはされてるんじゃないかなぁと思う(私の勝手なイメージではギャン…いやゲルググ……)。あと、今の若者にどれくらい「ジム」が響くのかなぁ?とも思った。



ほかに最近読んで面白かった本。


  



 『東大秋入学の衝撃』(中経出版)。東大に関してのいろいろな噂をあげ、それに対して事実を回答として示していく形。高等教育について問題意識を持っている人にとっては興味深い、現場をみて回った上での分かりやすいまとめ。

 『創造力なき日本――アートの現場で蘇る「覚悟」と「継続」』(角川oneテーマ21)。村上隆さんはアンチも多いですが、仕事に対する考え方や物言い、僕は好きです。アーティストになろうとしている人に限らず、仕事をするすべての人に参考になると思います。なんだってアートといえばアートだし。特に面白かったのは、カイカイキキの運営方法を震災後に変えた話や、ドワンゴ川上さんとの対談などでしょうか。

 もう1冊『日本をダメにしたB層の研究』(講談社)はネタ本みたいですが、意外に「なるほどねぇ」と思わされました。著者の適菜氏は過去にも「B層」本を出しているようですが、氏の著作を読むのは私は初めて。哲学者という肩書のようですが、分析が分かりやすすぎないかという気もしましたが、一つの見方としてはアリではないだろうかと。今度の選挙でこのB層がどういう(投票)行動を取るのか、気になりました。

 そして今読んでいるのは田端さんの『MEDIA MAKERS』(宣伝会議)。なかなかなくてあちこちで探して、渋谷のブックファーストでようやく見つけて購入。田端さんの初めての著書ということにちょっと驚き。氏の話が分かりやすくて面白いのはブログやいろんなインタビューで知っていましたが、これも分かりやすくていい。読んでためになるのはメディアを仕事にしている人だけではないと思う。視聴者、読者として誰もがメディアに接する訳ですし。
 ちょうど今、仕事でウェブメディアの再構築にかかっているところなので、参考にさせてもらおうと思いました。

2012年10月20日土曜日

島村ジョーもリーダー、高橋みなみもリーダー――「009 RE:CYBORG」を観て

© 2012 「009 RE:CYBORG」製作委員会


JAPAN as a LEADER of ...

  「サイボーグ009」の連載が始まったのは1964年(昭和39)。その後、連載は85年まで断続的に続いた。2012年現在、早瀬マサトさんと石森プロによる完結編が描かれているが、石ノ森氏本人による009は80年代で止まっている。「未完の大作」と呼ばれる所以だ。石ノ森氏が連載するにあたり何を考えていたのか、そのあたりの分析は雑誌『Pen』の特集「サイボーグ009完全読本」に任せるが、こういう疑問を持つ人はいないだろうか。


 なぜ、世界各国から集められた9人のサイボーグ戦士のリーダーが日本出身なのか――。



 身も蓋もない言い方をすれば、「日本の漫画なんだから」ということになるだろう。だが果たしてそうした解釈しかできないものだろうか?

 2012年、サイボーグ009を原作にした映画が新たに公開される。「攻殻機動隊S.A.C.」シリーズの神山健治監督が脚本も手がけた「009 RE:CYBORG」だ。10月27日全国公開の本作を、私は先日、試写で観た。ちょっと難しく分かりづらいところはあったが、面白かったし、好きな作品と言える。公開前でネタバレはしたくないので、ほんの少しだけ、感じたことを書いてみる。

原作の漫画が連載されていた時期、日本は高度経済成長を遂げた。一方、本作の舞台は2013年。社会は、世界は、まったく変わった。既にソ連は崩壊し、冷戦は終わった。中国をはじめとした新興国が台頭している。EUが生まれ、その中でも経済格差が顕在化するほどの時間がたった。世界における日本のポジションも大きく変わっている。どう変わったかは言うまでもないだろう。

 本作の舞台設定は、キャラの意匠変更とともに大きなチャレンジだったはずだ。人間のつくった「国家」から独立した存在として、人間(人類)のために戦う正義の集団としてのゼロゼロナンバーサイボーグ。主題歌「誰がために」ではないが、誰の為に、何の為に、正義をなすのか――。ある時代のある社会で「正義」と言われる言動が、別の時代、別の社会では正義ではないことは往々にしてある。20世紀に追い求められた正義と、21世紀の今のそれは必ずしも同じではない。今この時代に“9人の戦鬼”がとるべき行動とは何か、しっかり設定しなおす必要がある。

 正義を求める過程には、大きな犠牲とリスクが求められる。そして、それに負けない強い心、強い組織が必要だ。反対や対立、邪魔といった障害を超え、一人では成しえないことを成すための強い組織が。ここで冒頭の疑問に立ち返る。現代において、世界の為に戦う組織のリーダーに、日本人が立つことの意味とは何か。

 本作で神山監督は、「なぜ009が、日本の島村ジョーが、世界各国から集まったサイボーグ戦士のリーダーなのか」について説明している。

 9人の出身国・地域(ロシア、アメリカ、フランス、ドイツ、アメリカ、中国、イギリス、アフリカ、日本)をみると、「なぜアメリカじゃいけないのか」という疑問は生じる。9人のうち2人はアメリカ大陸出身。経済的にもアメリカがリーダーシップをとってしかるべき、と考えることはできる。
 だが逆に、アメリカがリーダーになった場合に生じる問題点も少なからずあるはずだ。それは今の社会を見れば分かるだろう。だからこそ、日本なりのリーダー像があり得る。

 そう思いながら現実を見ると、暗澹たる気持ちになる。日本の外交、世界におけるポジショニング。決して、理想的な姿とは言えない。今の日本が、正義を追い求める上で世界のリーダーなれるかと問われれば、現時点では(残念ながら)消極的な回答しかできそうにない。

 しかし、そもそもリーダーとして他国をけん引する存在が求められるのは政治・外交の世界だけではないし、何もリーダーが必ずしも、“今のアメリカのようなリーダー”である必要はないだろう。この時代、今の世界の中で、日本がリーダーシップをとれるフィールド、とるべき形があるはずだ。

 失われた20年。不況と円高。そして3.11――。こうした苦難を経たいま、日本は明らかに活力を失っている。日本株式会社を支えた各種産業は輝きを失い、世界2位まで登りつめた経済分野での地位も失った。かつてのような経済大国として、世界1位という意味でのリーダーになるのは考えづらい。
 だからといって「これから日本はもうダメになるだけ」でいいのだろうか。日本ができること、すべきことがなくなったわけではないはずだ。20世紀の成功体験をそのまま再現できないからといって、「もう日本はダメだ」というのは、過去にとらわれ過ぎた考えだ。20世紀型のリーダーではない、今なり、日本なりの道を模索すべきだ。組織の構成員のまとめ方、リーダーのあり方だっていろいろのはずだ。

 本作は、「求めるべき正義とは何か」を考える良いきっかけになる。そして009、島村ジョーの姿は、「そのために自らがどうあるべきか」を考える良い材料になるだろう。

 たしかに彼のように万能の、絶対的エースとしてのリーダーになることは容易ではない。だが、突出した才能があるとは言えない高橋みなみも、AKB48の唯一無二のリーダーだ。そういう形もあるのだ。
 
 そう考えながら本作を鑑賞すれば、ジョーの立ち姿にすら感じるものがあるはずだ。組織の中でのリーダーとしての地位に固執することなく、自らが信じる「成すべきこと」をまっすぐに、自信を持って追い求める彼の姿を見れば、自信を失った日本がまず何をすべきか、そのヒントが感じられるはずだ。

* * *

 ところで本作は果たしてヒットするだろうか?
 私は原作漫画の熱烈なファンではないし、神山監督のファンなので、どうにも客観的な評価ができないのだが、原作漫画を読んでいた世代は、石ノ森ファン、009ファンかどうかは別としても、少なからず抵抗があるようだ。たとえば富野由悠季監督は試写後、「59.999…60点はつけたくない」といっていた。彼は原作のファンではないと言いつつも、「知っている」だけに「60点はつけたくない」といっていた。彼に限らず、そこの抵抗感は小さくないだろう。好き―嫌い、違和感覚える―覚えない、というのは世代で大きな差があるはずだ。そこを乗り越えられるかどうか。

私は10月27日に公開されたらまた観に行くつもりだが、それは「前売り券を買ってしまったから」ではない。

2012年10月18日木曜日

読むヒマないなら聴いちゃえば?――「耳読」っていいかも?




 最近マンガ以外でこんな本を買った。 



 このうち町山智浩さんの『教科書に載ってないUSA語録』(文芸春秋)は面白くてすぐに読み終わった。週刊文春の連載をまとめたものだが、やっぱりアメリカは面白い国だ。
 松谷創一郎さんの『ギャルと不思議ちゃん論: 女の子たちの三十年戦争』(原書房)も興味深く読み進めているのだが、ハードカバーで重いので持ち歩くのに躊躇してしまい、少しずつといったところ。
 福井健策さんの『「ネットの自由」vs.著作権: TPPは、終わりの始まりなのか 』(光文社新書)は読み始めたばかり。企画を考えていることもあって、買ってみた。
 清水良典さんの『2週間で小説を書く! 』(幻冬舎新書)は書店で面白そうだなと思って手に取ったのだが、“積ん読”状態……。

 このほかに、依然百合漫画を買い進めており、ついにアンソロに手を出し始めた。買ったまま読めていない本も少しずつ増えている。忙しくて本が読めないとか言いたくないが、なかなかゆっくりと本を読む時間が取れない。電車ではTwitterのTLとまとめサイトをサッと確認して、なるべく本を読むことにしているのだが、通勤・退勤の電車に乗っている時間はそう長くない。ほかにもTEDも観たいし、NHKの英会話も聴きたいが、このところできていない。帰り際に本を読むためにマックに1時間程度寄るなどということをするのだが、やはり追いつかず、もっと本を多く読みたい。読む速度はそうそう上がらないし、だからといって速読をしたいとは思わない。
 こういうのは本好きにとって永遠の悩みなのだろうなぁ、などと思っていたら、以前取材でお世話になったオトバンク会長の上田渉さんから新刊『「耳読(ミミドク)」で、もっと読めるようになる!』が届いた。
 正直、「朗読少女」は女の子のキャラが読んでくれるという点に抵抗があって使っていなかったが、新刊のサブタイトル「読書時間を3倍に増やす方法」には目を引かれた。



 要はオーディオブックで耳から内容を入れてしまおうというものだ。オーディオブックとは、音楽以外の聴くコンテンツのこと。それなら歩きながらでも内容に触れることができるので、便利かもしれない。
 そういえば自分も以前はPodcastでラジオ番組やネットで配信されている対談などを聴いていた。最近ごぶさただったが、たしかにそれも音楽以外の耳から入れるコンテンツではある。本書では勝間和代さんはじめ、耳読を実践している著名人のことも紹介されているが、彼女は昔、著書でオーディオブックを勧めていたことを思い出した。

 ためしにオトバンクのFebe!(フィービー)というサイトを見ると、「倍速版無料!!」とも書かれている。なるほど、読む(聴く)時間を短縮できるらしい。ベストセラーとして紹介されているコンテンツでは、『もしドラ』『夢をかなえるゾウ』『7つの習慣』などおなじみの(紙でも売れている)コンテンツが並んでいる。ジャンルもビジネス、自己啓発だけでなく、語学、文芸(落語など含む)などいろいろあるようだ。これは面白いかも。
 スマホやタブレットも普及してきており、オーディオブックを楽しむためのデバイスはたくさんある。まだ試していないのだが、試しにどれか聴いてみようと思っている(本書の購入特典として、人気オーディオブック12本の音源が一部が聴けるとのこと)。読むのと違って、頭への入り方がどうなのか心配もあるが、試してみないと分からないこともあるだろう。

 ただオーディオブックの制作は手間がかかるため致し方ないのだろうが、価格がもう少し安くなるといいな……などと思っていたら、ときどきCDを買っているNHKラジオの実践ビジネス英語は、FeBe!で買うほうが100円くらい安いようだ(パッケージ代の分安いのだろう)。今後はこちらで買うことにしよう。

2012年10月5日金曜日

人生に必要なのはパートナーであり、出会いは獲得し育てていくものだ――映画「最強のふたり」を観て

© 2011 SPLENDIDO/GAUMONT/TF1 FILMS PRODUCTION/TEN FILMS/CHAOCORP


差別たらしめるもの

 映画「最強のふたり」を観た。

 実話を下敷きにした作品だそうで、既に大ヒットしているのでご覧になった方も多いと思う。最初ポスタービジュアルを見て食指が伸びなかったのだが、Twitterで複数の人が勧めていたので観ることにした。今となっては観てよかったと思う。とても面白い、いい作品だった。

 話の筋はこうだ。

 大富豪のフィリップはパラグライダーの事故で首から下が麻痺しており、動かない。その介護役として採用されたのが、服役経験のある黒人青年のドリス。彼は失業手当をもらうため、就職活動をした証拠として、不採用になるために介護役の面接を受けたが、なぜか採用されてしまう。採用は不本意だったドリスだが、フィリップの挑発に乗り、自宅に居場所がないこともあって介護役を引き受ける。奔放なドリスはフィリップの障害にもお構いなしだが、フィリップはドリスを気に入ったようで、彼に影響されてどんどん変わっていく……。

(以下多少ネタバレします)

 本作は、主人公の2人の構図からして差別というものを意識せずにはいられない。金持ちで良識のある白人と、貧乏で粗野な黒人。辟易する人もいるであろう、ステレオタイプな設定ではある。そのフィリップは重度の障害を持っており、同性愛者も登場する。ナチスさえジョークで扱われる。差別イシューのオンパレードだ。

 言うまでもなく、差別は難しい問題だ(ことさら難しく考えよう、取り扱おうとする意識と行動こそが問題を難しくしているという指摘もあろうが)。問題として受け止めるほどに、自覚的になればなるほどに腰が引け、かえって(無自覚に)差別する結果となる。人との違い、自分との違いを単なる“違い”として、個性として受け止めるべし――などと言われるが、言うは易く行うは難し。ある言動を差別と考えるかどうか線引きは人によって異なるし、不快に感じる程度も人による。差別と認めながらも許す人もいる。一概にこうとは言い切れない部分が多すぎ、多くの場合、untouchableなマターとして取り扱われる。さわらぬ神にたたりなし、というやつだ。

 本作の魅力はドリスの人間としての魅力に尽きるのだが、彼は差別の対象となりえるものを特別扱いしない。いわゆる差別的な言葉を吐き、行動をとるのだが、彼はフィリップを特別扱いせず、自然に接している。常識的な大人であれば眉をひそめるような言動をしても、なぜかフィリップはそれを悪く思わない。その理由をフィリップは述べている。

 「彼は私に同情していない」――。

 同情と共感の明確な違いは知らないが、それは「可哀想」という感情の有無ではないかと思う。「可哀想」とは何なのか。自分を“上”に、相手を“下”にみて、それを押し付けることではないか。いくら自分が相手を「可哀相」だと思っても、相手は自分のことが可哀相だと思っているとは限らないわけで、勝手に優越感(罪悪感)にひたるのが同情だとは言えないだろうか。そしてドリスはフィリップや、その他、差別されるような境遇にある人に対して、そんな勝手な感情を持たないのである。

人間関係には様々な形がある。デリカシーが求められる、緊張感あふれる関係もあれば、気の置けない関係もある。お互いが相手に何を求めるかはそれぞれだから、人の組み合わせの数だけ、関係のあり方が存在する。
 その点ドリスは、相手に合わせて、相手の顔色をうかがって自分の対応を決めるようなことをしていない。自分のありのままを相手にぶつけている。相手がどういう状況、どういう考えであれ、また相手が自分を受け入れようが入れまいが、彼は変わらない。相手に受け入れられようとすることが必ずしも良い結果につながるとは限らないのだから、どうせなら気などつかわず、思うように振る舞えばよいのだが、そうできないのも人間の性、弱いところだ。
 
 私はドリスの素直さをとってもうらやましいと思った。おそらく自分なら、フィリップに気をつかい過ぎて、窮屈に思われ、すぐに解雇されてしまうだろう。何かにマジメに取り組むことを卑下するつもりはないが、それが必ずしも正解とは限らないのだ。彼はとても素直に、人と接することができる。彼には自分をカッコよく見せようとか、いい人と思われようとか、背伸びしようとする気持ちがない。その強さに憧れる。

出会いがないなんて嘘だ

 ところで本作のような“バディもの”は古今東西多数存在する。たとえば「48時間」、日本のTVドラマ「相棒」、女性なら「テルマ&ルイーズ」、アニメなら「TIGER&BUNNY」などがそうだろう。いみじくも今「夢売るふたり」という映画も公開されている。「ふたり」はアリだが、「さんにん」ではダメなのだろう(そういえばMARVELのヒーローにはバディものはない…アメリカ人の好みじゃない訳でもないだろうが……)。
 このように古くから「2人」の関係性をフィーチャーした作品は多い。その理由は、人は常に、信頼できる、運命のパートナーともいうべき存在を求めているからではないだろうか。

 いま結婚をする人が少なくなっているという。別にそれを咎めるつもりはないし、法律上の結婚という形式にこだわらないカップルが増えているだけかもしれない。婚姻数がどれくらい減っているか、なぜ減っているかは分からないが、もし減少が事実だとすれば、みな結婚していないからこそ、心のどこかでそうしたパートナーを求める気持ちがより強くなり、本作のような作品が一種の憧れ、うらやみの対象としてみられ、支持されるのかもしれない。

 「パートナー」が同性か異性かの違いは大きいだろうが、誤解を恐れずいえば、結婚した男女がいつまでも異性として相手を意識続けるわけでもなかろう。その意味では、同性であれ異性であれ、人は「運命のパートナー」を求めていると言える。積極的に探しているかどうかは別だ。心の奥底では、そういうつながりを、そういう関係を築ける人を求めている。それは結婚相手かもしれないし、本作のように介護者・被介護者という関係かもしれない。

 「さんにん」ではいけない。なぜなら3人になった瞬間に、自分が思う相手が、自分よりもう一人を選ぶかもしれないからだ。お互いに、相手は自分だけという状況になるには、「ふたり」でなければいけない。

 なぜ結婚する人が減っているのか、その理由はいろいろあるだろう。社会の変化に照らし合わせ婚姻制度に無理が生じている。コストがかかりすぎる。内縁関係がとやかく言われることがなくなった……。とはいえ、誰もが、「どうしても一人で生きていきたい」と思っている訳ではない。心のどこかでふれあい、寄り添うことを求めている。
 そうしたパートナーとの出会いは、自ら獲得しなければいけない。そして育てていかなければいけない。本作では偶然の出会いが2人をつないでいる。しかし、そこに至るまでに、フィリップは長年自分に注がれ続けた同情の目線に辟易しており、その状態が続くことに嫌気がさしていた。フィリップはドリスに出会う以前に、何人ものパートナー候補と会い、時間を過ごし、見切りをつけてきた。そして、冒険してみようと思った彼の一歩(ドリスの採用)が、図らずも最良のパートナーを見つけるきっかけとなった。ドリスを選んだのはちょっとした気まぐれだったのかもしれないが、その行為があってこそ、二人は出会えた。

 何も3.11以降の絆うんぬんをここで言いたい訳ではない。そもそも本作は日本でだけ支持されているわけではない。ただそうした関係を誰かと築きたいのであれば、出会いを獲得することをあきらめてはいけない。それに、「新たな出会い」にだけパートナー探しの機会を求めてもいけないのではないだろうか。既に出会っている誰か、すぐそばにいる誰かとの関係を見直し、大切にし、育てていくこと。それも運命のパートナーを見つけるために有効な手立てではないだろうか。
 「出会いがない」なんて嘘だ。「どうせ出会えない」と思っていれば、せっかくの出会いにも気づけない。既に出会えているのかもしれない。明日出会うかもしれない。その相手の存在に気づくためには、準備を怠ってはいけない。止めてはいけない。自分の心があきらめているのに、それでもビビッとくるような出会いがあるかも……なんて、あるはずがない。

 そういうことを考えさせられた作品だった。


* * *


 ところでこの邦題はどうにからなかったものだろうか。原題は『Intouchables』。英語でいえば「UNTOUCHABLE」。 ストレートな訳にするとちょっと重かったろうが、もう少し別の何かはなかったのかと思う。
 演出面では、一旦ドリスがフィリップのもとを離れるところの理由が分かりづらかった。描写がもっとあっても良かったのではないか。あとラスト。唐突にベースとなった実話の2人の画が出てくるが、肝心の本編のほうがブツリと切られた感じがした。本作で二人はどうなっていくのだろうか。やはりフィリップが言ったように、彼の介護はドリスの一生の仕事ではない、ということなのだろうか。であるなら、本作の下敷きとなった2人が今も一緒に居ることをどう評価すればいいのだろうか。たしかにドリスは介護の分野で仕事をしてきたわけではないが、作品としてのけじめのつけ方としては不満が残った。

 いずれにせよ、間違いなくEW&Fの曲が聴きたくなる。ダンスシーンでは涙がこぼれそうになった。

2012年9月10日月曜日

ガチになって見えるもの・分かること――『AKB48白熱論争』を読んで



まず推しメンを見つけては 

 話題になっている『AKB48白熱論争 (幻冬舎新書)』を読んだ。

 単にAKB48についてファンが「俺はここが好きだ」「推しメンのここがいい」とか話してるわけではもちろんなく、現代日本社会を鋭く分析した一冊だ。だから「AKB48なんて……」と思っている人、バカにしている人にも一度読んでみてほしい。

 おそらく多くの非AKBファンは、

「秋元康がまたおにゃん子と同じことやってるんでしょ」とか
「そんなに可愛くもない素人の女の子が歌って踊ってるだけでしょ」とか

 決めつけているのではないかと思う。
 それを別に咎めるつもりも権利もないけれど、ここまでのブームになったことに対する分析から見えるものは、決しておろそかにできないはずだ。

 ただ48グループやメンバーのキャラについても詳しい言及がされているので、何も知らずに読むよりは、ちょっと下調べしてからをオススメしたい。やはり基礎知識はあったほうが理解は深まるはずだ。

 しかし、そうは言われても「何をどうやって調べればいいのか分からない」という人もいるだろう。現状、興味が持てないという人には、まず推しメンを見つけることを勧めたい。二百数十人もいれば、好みのメンバーの一人や二人いるはずだ。よく「経済に興味を持つためには少額でも自腹で投資をしてみるといい」といわれるが、それと似たようなもの。CDを買うなどの投資をしろといっているのではなく、気になる存在(ウオッチする銘柄)を見つければ、自然とアンテナをたてることになるで、少しずつ興味は深まり、広がっていくはずだ。

 本書で一つ残念なのは、AKBヲタ4人でのみ語られていることだ。「白熱論争」とうたっていて、確かに白熱はしているが、対立するところがあまりないので盛り上がりが一方的な感じはする。おそらくこの4人の論客は、この新書以外のところでそうした論争をやっているのだろうけど。

 一気に読み進める中で、「なるほど」「そういう見方があるのか」と思ったページに折り目をつけていった。その数が結構多くなってしまったのだが、その一部を紹介すると、例えば宇野さんの「カラオケは主旋律を演奏する音ゲー」、「推す」ということに対する考え方、商業主義を追求した結果として生まれてくる多様な民主的表現といった分析、中森さんの「恋愛能力」「セックスよりたちが悪い」といった指摘――などに注目した(宇野さんの指摘については、最後のほうに出てくる「多神教的な世界観と資本主義の結託」についてはちょっと分からなかったけれど……)。

 私自身は、先日ブログで東京ドーム公演で発表された組閣のことを書いたり、プロフィールに「こじはる推し」「さやか推し」と書いたりしてはいるものの、正直大したファンではない。公演だってドームが初めてだし、握手会に行ったり投票したりもしていない。「AKBが好きというより、こじはるが好きだから」とくどい説明をするのだが、それは自分をファンだというのはおこがましいと思っているからだ。
 思うに私は、どちらかというと最近まで「敢えてハマっていた」と思う。そんな私のような“にわか”は、いきなり「まえがき」でガツンとやられる。小林よしのり氏によるまえがきのタイトルがまさに

「あえて」ではなく、「マジ」で嵌る我々

なのだ。そこでは、敢えてハマっているのではなくマジであって、主観にどっぷり埋没しつつも、客観的に観察し、分析する力も持っている、と宣言している。まえがきに続く本編も、まさにそう評価できる内容だった。

 本書を通して驚かされたのは濱野さんのガチヲタぶりだが、あとがきのチームK沖縄公演の話がとてもよかった。感動した。それは一人の男性の情念が、冷めていた雰囲気を変えてしまったというエピソードだった。
 AKBといえば、「努力は必ず報われる」と述べ、懸命に努力する姿が印象的なたかみなが代名詞的存在だ(総監督だし)。AKBにはファンにもそうしたアツい人がいるのだ。

 アツい人、アツい発言を「何アツくなっちゃってんの」とシニカルに笑うのは簡単だ。
 でもそれでは何も生まれない。
 何事もやるからには、アツく、マジで、ガチでやらなきゃイカンと改めて思った。それは何も仕事や勉強といった、自分の将来に関わることだけに限らない。自分が大切だと思っていることであれば、周囲が考える「事の大小」ではなく、マジでやらなきゃイカン。マジで考えなきゃイカン(でなきゃ「好き」とは言えないのかもしれない)。




 AKB48はこれからも変化し、進化し続けると思う。今のAKB48と半年後、1年後のそれは大きく違うはず。つまり彼らには語るべきことがこれからも生まれてくるということ。節目節目にこの座談を聞いてみたいと思った。