2012年5月29日火曜日

“Do Something”と“Be Someone"――映画『マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙』を観て

少し前のことになりますが、映画『マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙』を観て考えたことを書いてみたいと思います(ちょっと前なので印象や情報があいまいになっていますが)。



ちょうど今年の初めにボーイスカウトの取材をしたこともあって、面白いなと感じたのが法案審議中に停電になったシーン。
突然、停電になった時、議員のおじさんたちが並んで座っている中で、ただ1人の女性であるサッチャーが懐中電灯をつけます。「ボーイスカウトだな」とか何とか字幕が出るのですが、「Be prepared.」というつぶやきが聞こえるのです。
そこで、「あぁ、さすがボーイスカウト発祥の国、イギリスだなぁ」とちょっと嬉しくなりました(ちなみにこれはボーイスカウト世界共通のモットーで、「そなえよ つねに」と訳されます)



ところでこの映画では、サッチャー氏の名言がたくさん引用されていますが、

その中でも一番、身につまされた、ギクッとしたのがこのセリフです。
It used to be about trying to do something.
Now it's about trying to be someone. 
映画の最中、暗い中で私が書いたメモには
「Do Something」「Be Someone」としか残っていないのですが、
意訳すると、
昔、(私たちは懸命に)何かを成し遂げようとしたものです。
(なのに)今の人は(そんなことをすっ飛ばして、すぐに何者かになりたがる(なめるな)。
といったところでしょうか。

劇中、メリル・ストリープが苛立ちを隠しもせずに話していたのがとても印象的でした。

この映画の原題("The Iron Lady")通り“鉄の女”として知られるサッチャー氏は、映画になるくらいの、歴史に名を残す名政治家です。その政治家人生は順風満帆だったわけなどなく、挫折も失敗も孤独も経験している……なんて表現では表しきれないほど、大変なものだったはずです。

2時間かそこらの短い上映時間に限っても、いろいろな困難が描かれていましたから、実際に本人が経験した苦労は数限りなく、その渦中にいたときのプレッシャーたるや、想像を絶します。よくぞめげずに、負けずに、ブレずに自分の道を進んだものです。


サッチャー氏と比べるべくもありませんが、私たちも日々、あらゆる判断を強いられています。


それは会社で何かを始める、やめる、といったような、経営判断の類だけではありません。
何もリーダーだけが行っていることではなく、誰もが行っています。

例えば

何かを頼むメールを送るか、送らないか。
部下を叱責するか、しないか。
上司や同僚に、相談をするか、しないか。
書類の文章をこう書くか、ああ書くか。
FAXに送付状を付けるか、付けないか。
お礼のメールをするか、しないか。

たいていは、後で「もし違うほうを選んでいたら……」と比較することができない(されない)ため、
その判断の是非が問われることはありません。

しかし、間違いなく、“自分の”行動一つひとつが、結果につながっています。

自分の今日、明日という名の未来、つまりは“結果”の“原因”となっている。
それは、メールに返信が来るか、来ないか、といった
行動の直接のリアクションのことだけを言っているのではありません。

「何かをしよう(もしくは『するまい』)」と考えた、
その思考が行動につながり、
その行動の積み重ねこそが、
周囲の“その判断をし、その行動を取った(または『取らなかった』)”自分への評価となるのだ

――と改めて思いました。



当たり前のことですが、結構、恐ろしいですよね。

日々の小さな、(もしかしたら自分は大きな影響があるとは思わずに行っている)判断と行動こそが、自分自身そのものを形成しているわけです。


このことに関連していうと、サッチャー氏には有名なこんな言葉もあります。
メモはしていなかったのですが、何となく覚えていたのでググりました。
Watch your thoughts for they become words.
Watch your words for they become actions.
Watch your actions for they become... habits.
Watch your habits, for they become your character.
And watch your character, for it becomes your destiny!
What we think we become. 
意訳すると、
考えに気を付けなさい。それはやがて言葉となります。
言葉に気を付けなさい。それは行動につながります。
行動に気を配りなさい。それはあなたの性格となります。
そして性格に気を配りなさい。それはあなたの運命となるのですから。
つまり何を考えるが、それが自分自身、そのものなのです。
といったところでしょうか。

これも有名ですから聞いたことがある方が多いと思います。

「忙しい忙しい」と毎日を過ごし、その一方で過去を振り返って「今年ももう半分終わってしまう!」と焦る。そんな毎日の中で、どうしても結果を求めようとしてしまう。

……いや、この言い方は違うし、中途半端ですね。

結果を求めることは悪いことではありません。
その結果が、「何かを成し遂げる」ということではなく、
「何かを成し遂げた人、という評価を周りから得ること」になっていることが
果たして良いことなのかどうなのか、

という疑問を、この映画を観て感じたわけです。

「自分は安直にそう願っているのではないだろうか?」と。

ただし、先ほど述べたように、「周りの評価こそが自分である」という意味でいえば、
評価を求めることは悪くないように思えます。

しかし、それは本末が転倒しているように思います。

評価は上げようとして上げるものではありません。
“結果として上がるように”務めるしかない。

例を挙げるなら、kloutを上げるためにソーシャルメディアをやる、というようなものでしょうか。

それが必ずしも悪いとは限りません。その努力の中で見えてくるものがあるはずですから、やらないよりやってみたほうがいいと私は思います。

ただ、自分がすること、しないことについては、必ず自分自身の納得が必要です。そうしないと、望まない結果を得た時に、後悔するからです。

自分は周りから評価されたいと思っています。
そのために自分がすべきことはたくさんあります。
そして、それをしている最中は「大変だ」「面倒だ」「早く終わらないか」と思い、ついつい手を抜いてしまいます。汗をなるべくかかずして功を得ようとしてしまいます。
また、「今やっていることが、評価につながるのだろうか?」と悩むこともあります。

でも、結果を信じて続けるしかありません。Breakthourghは、日常の延長線上にあるはずです。


この映画をみて、こんな偉そうな感想を書いたからといって、劇的に自分が変わるとは思っていません。でも、一つでも多くの自分の行動を、自分が望む未来、結果を得るための行動にしたいと思います。小さなsomethingを続けることで、"someone"になれると信じて。



* * * * *

さて、この映画に対する評価ですが、とてもいい作品だったと思います。
ご覧になってない方は是非、Blu-rayかDVDが出たらご覧になってほしいです。
メリル・ストリープがアカデミー賞主演女優賞は納得です。
ちょっと脚本、演出で分かりづらいところはあったような気はしますが、
ともかくも彼女の演技はとてもよかった。

たくましく、頼りがいがあり、だけれどもかわいらしい、魅力的な女性として演じられていました。
(彼女が夫のデニス・サッチャーを呼ぶ「デニス!」という声が頭から離れません)
ただし、これは多くの方が指摘されていますが、邦題はちょっと合わない気はしました。



2012年5月21日月曜日

そこで何をどう書くべきか――「視点」について考える(1)

FJの休刊号・2012年6月号を発行した4月21日から一カ月が経過しました。

月刊誌なので1カ月は書店に置いてもらえるとして、5月21日までにはなくなります。
つまり本日、とうとう書店からも姿を消したことになります(サイトでは今後も販売しますが)。

こうなったことについて、
「編集長として書かねばならないこともあるのでは」というご意見もあるでしょう。
しかし言いたいこと、書きたいことは誌面で書いて(編集して)きました。
もちろんできなかったこともあり、またいつか……などという考えもありますが、
それができなくなったことは、すなわち力が足りなかったわけですから、
挑戦が広い支持を得られなかったという事実を甘受しながら、
次の歩みを繰り出さなければいけないのだろうと思いました。

ところで、これまであちこちで少しずつブログのようなものを書くなどしてきて、
FJに携わっていた間は、アメブロでもやってきました。
このままブログタイトルだけ変更して続けるということも考えましたが、
IDがfinancialjapanのママでよいのだろうか、ということもまだ整理できていません。

だからといってアメブロのアカを消してしまうつもりはないのですが、
一方で、アクセス数カウント法など、アメブロについて
数々の疑問が寄せられている現状にあって、
アメブロだけで続けていくのもなぁ、と考えたこともあり、
新たにブログを立ち上げていろいろ書いていくことにしました。
(アメブロを消さない理由には、financialjapanという名前を残しておきたいということもあります)


というわけで今日からここで(も?)書いていきたいと思います。


*   *   *   *   *   *   *   *   *


最初のエントリを何にしようかずっと考えていて、
さっきまで「色」について書くつもりだったのですが、
急きょ、「視点」について考えてみたいと思います。
まさにブログタイトルのように考えながらまとめていきたいと思います。


実は先日からエラそうなことにライター・編集講座なるものを始めました。
http://www.facebook.com/events/382734945106772/

編集長としては、今のところ結果を出せていませんが、
少なくとも、人の文章を分かりやすく直すだとか、
推敲や編集のスキルは、それなりにあるんだろうと思っています。
(クセもあるし、表現の幅も広くなんかありませんし、
そもそも「面白い文章を書く」能力が自分にあるとは思っていませんが、
分かりやすくする、推敲するのはそれなりに得意な気がしています)

そこで文章がうまくなりたいという方に教えるということをしています。
その過程で受講生の皆さんにはお伝えしたのですが、

「視点を知ること」

は本当に重要だと最近改めて思います。

例えばそれは、その媒体(ブログ)で伝えるべきこと、
個々の記事で伝えること、伝えるべきことを規定します。
何を書く(べき)か、どう書く(べき)かについてがおのずとハッキリします。

ただそれは、「書きたいことが何なのか決める」ということでは、必ずしもありません。
なぜかというと、職業ライターは、必ずしも自分が書きたいことを書いているわけではないからです。仕事であれば、ネタをフラレて書くわけです。それは一部のブロガーの方もそうでしょう。読者が読みたいであろうと思えテーマなら、さほど関心はなくともそのテーマについて書くはずです。
まぁ個性が大切なブロガーはともかく、仕事で文章を書く場合は、発表する媒体によって、そこで書くべきことは変わりますから、必ずしもそこに筆者の視点は必要ないということが珍しくありません。
そういう仕事の発注の仕方(ライターに個性を求めない)の是非はここでは論じません。ここで指摘したいのは、

その記事で何を書くべきなのかということは、
視点が分かっていなければ、分からない(書けない)

ということです。当たり前ですね。逆にいえば、

視点が分かれば、何をどう書くべきかが分かる

わけです。書ける人からすれば、しごくもっともなことなので、読み飛ばしていただいたほうが良い。
ですが、書けない人は、それがスッと理解できないという場合が多いように思います。

分かりやすくいえば、

・ 発注元が記事に、自分に何を求めているのか
・ その記事で読者に何を伝えるべきなのか
・ その記事に、そのメディアに読者は何を望んでいるのか。

ということが分かるかどうか。それは、“出発点”としては大きな違いです。
(それが分かっていれば、そこから外すということもできます=分からないと外せない)

世の中で何か起きた時、ニュースを聞いた時、そこで取り上げるべきかどうかが分かります。
取り上げると仮定して、何をどう書くべきかが分かります。

すごく分かりやすくいえば、R25の巻頭の「RANKING×REVIEW」で書くのと、
ウーマンエキサイトに書くのとでは、まず取り上げるネタも違うでしょうが、
たとえ同じネタで書くとしても、まっっったく違う記事になるわけです。

これだけ違えば分かりやすいですよね。
(「そんなん分かって当たり前」と思ったら、何か一つテーマを決めて、自分なら何をどう書くか考えてみてはどうでしょうか。金環日食でも、きゃりーぱみゅぱみゅブームでも、河本準一家族の生活保護受給の件でも、チャンピオンズリーグでも、B-CASでも何でも構いません。それを、どこに発表するかという想定とかけあわせて、何を書くか考えてみる。意外に難しいかもしれません)

それに、いつも分かりやすいとは限りません。
たとえば同じ雑誌でも、コーナーによって書くこと、書き方は変わりますし。時期によっては同じ雑誌、同じテーマでも、書くこと自体が異なります(視点はブレてはいけませんが)。

ライターとして分かるべきなのは、
自分が書く記事は、何のため掲載される記事なのか。
このページのこの文章で伝えるべきなのは何か。

そういうことです。それが分かると、話が早い。

ただし「話が早い」のが「正しい」とは限りません。

直観的に分かるからいいというものでもないのです。何かネタを振られたときに、「あっ、これなら、こういうことを書いたらどうだろう」「データやコメントは、あそことあのサイトで調べればいいだろう」ということにすぐに気づけば、たしかに話は早いのですが、それが正しい・面白いとは限らないからです。

「ストロベリーナイト」では、姫川は直観をもとに捜査を進めますが、日下はとにかく丹念にデータを積み上げていき、直観という予断を可能な限り排除します。まったく手法は異なりますが、どちらが正しいというわけではありません。
(ただしネタ元はたくさん持っておくべきです。ネタを振られてからあちこち調べ始めるのでは遅い)


ですが、「話が早い」という意味では、すぐに分かったほうがいいわけです。
今どきそんな悠長に仕事なんてしてられませんから、サッと分かったほうがいい。


また、これは言うまでもないのですが、途中で、そのロジックが成り立たないことやデータが集まらないこと、結果的に面白くないことが分かったら勇気をもって別の方向に進まなければいけません。
推論がなければ調査は進みませんが、調査の結果、推論が間違っていることが分かったら、論理を組みなおさなければいけません。でないとねつ造やデータの都合のいい解釈をするようになりますから。



記事に正解はない、ということがよく言われます。

ですが、不正解はいっぱいあります。


少なくとも視点が分かれば、その不正解にたどりつくことはなく、バッサリ直されることもなくなります。