2012年6月29日金曜日

号泣する余裕がなかった――映画『聴こえてる、ふりをしただけ』を観て



映画『聴こえてる、ふりをしただけ』より


リアルな演出とストレートなテーマ
号泣する余裕がなかった

 映画『聴こえてる、ふりをしただけ』の試写を観た。

 公式サイトによれば、ストーリーはこうだ。

不慮の事故で母親を亡くした、11歳の少女・サチ。周囲の大人は「お母さんは、魂になって見守ってくれている」と言って慰めるが、なかなか気持ちの整理はつかない。何も変わらない日常生活の中で、サチの時間は止まっていく。お母さんに会いたい。行き場のない想いを募らせるサチのもとに、お化けを怖がる転校生がやってくる ― ―。
遺された者は、どう生きて行けばいいのか。深い喪失から立ち上がり、明日へと生きるためには、何を捨て、何を自覚しなければならないのか。
母との死別、そして新しい世界。11歳の少女が悩み、立ち止まり、再び新しい日常へと生きる姿を瑞々しく綴った本作は、大人を一度子どもに戻してから、子どもから大人にさせてくれる。

  本作を勧めてくれた友人で映画ライターの鈴木沓子さんが
Web D!CEでいいインタビュー記事を書いている。彼女はその記事で「上映中、ポケットティッシュを使い果たしてもまだ足りないほど号泣させられ、鑑賞後しばらく、言葉を失くしました」と書いている。頷ける。だが私は、途中数カ所で泣いたものの、そこまでは号泣しなかった。とはいっても、何も「記事は大げさだ」と言いたいのではない。

 私が泣いたのはすべて“子どもだけのシーン”だった。もともと「子どもが自分の非を認めて必死に謝る」というシチュエ―ションに特に弱く、その情景を思い浮かべただけで泣きそうになる性質なのだが、私が(すすり泣きはしたものの)号泣しなかったのは、本作があまりにもリアルで、自身を投影して観るあまりに考えこんでしまったからで、つまりは泣く余裕がなかったのである。


「おためごかし」を言うのが
本当に大人の役割か
 

 前出のインタビューで今泉監督は、自身が小学生のころに家族が大病を患った時のことを語っている。

当時一番つらかったのは、いろいろなことが起こった自分の気持ちとは裏腹に、学校では、これまでの日常生活を送らなければならないこと
 今日どんなに辛いことがあっても明日の朝には学校に、職場に行かなければならない……。家人の死という大きな出来事に限らず、事の大小の差はあれ誰もが経験していることだろう。例えば彼氏にフラレて何もする気が起きないのにプレゼンしなきゃいけないとか、取材でインタビューに行かなきゃいけないとか。そういう辛いときだからこそ、変わらぬ日常を過ごすことで気を紛らわせ、時が過ぎ心が癒されるのを待つことができる。そう分かってはいても、その渦中にある本人は辛いものだ。

 そこで考えたのは、


「その渦中にあるのが子どもだったときに、大人はどう接するべきなのか」


 ということだった。本作の大人たちは、母を失って傷心のサチに、「お母さんはすぐそばで見守ってくれているからね」と繰り返す。そしてサチは霊という存在に強い関心を持つのだが、ある転校生と出会い、理科で「脳の働き」を学ぶうちに、残念ながら理性ではその存在を否定せざるを得なくなっていく。そこには、「サンタさん」を信じなくなる過程にある「切なさを伴うファンタジー」はない。

 そんな心情の変化に気付かない大人たちは、お母さんが守ってくれているという言葉をかけ続ける。さも「それが大人の役割」と言わんばかりに。そんな大人に対し、サチは疑問を素直にぶつける。

 「お母さんがそばで守ってくれているのに、なんで友達にいじわるをされるのか」と。



 そこで私は何と答えられるだろうか。
「それでもお母さんはそばにいる」とサチに言えるだろうか……?


 私は「お母さんはそばにいる」と言ってやりたいと思った。言わねばならないと思った。押し付けなのかもしれないが、「お母さんが身近に感じられる子でいほしい」と思った。
 
 劇中で大人たちはサチに優しい言葉をかけるが、ことごとくおためごかしに聞こえる。ほとんど考えもせずに、慰めるためだけにその言葉をかけている。たしかに、それは仕方のないことなのだろう。人生を引き受ける覚悟もないのに、人生に関わるつもりなどないのに、人生を変えるほどの経験をした人に対して、そうそう慰めの言葉なんてかけられない。
 

 自分がサチの父親であるなら、何を置いても娘を支えなければならないはずだとして、もし自分がサチの父ではなく、そばにいる他人の大人だったらどうなのだろうか。やはりおためごかしを言うしかないのだろうか?

 少なくとも、「もし自分の娘ならこういう言葉をかけるはずだ」という言葉をかけたいと思った。できるかどうかは分からないが、それこそが周りにいる大人の役目なのではないだろうか?
 11歳だからと子ども扱いすることなく、正面から向き合わなければならない。

(こんな偉そうなことを言うと、「それほどの壮絶な体験がないのだろう」「甘すぎる」と批判されるかもしれない。だがそれは甘受するしかない)

かけられたままのエプロン
心を癒す時間と共に失われるもの


 本作で感じたもう一つのことは、「女性の強さ」だった。

 サチが今泉監督の投影だから主人公が女児であるのは変えられないとして、彼女が直面するのが「母の死」ではなく「父の死」だったらどうだっただろうか。「妻と死別した夫」ではなく、「夫と死別した妻」の話であったなら、話はどう展開していただろうか。


(ここからほんの少しだけ、上に書いた「ストーリー」には書かれていない話の筋に触れます)

 サチは母の死後、辛さを感じながらも学校に通い、日常を過ごす。その一方で、父親は妻の死を受け止めきれず、大きく変わっていく。それはもう、まったく人が変わったようになる。“憑かれたように”とはあのことを言うのだろう。本作はフィクションではあるし、(子どもがいるのに)「さすがに夫がそこまで打ちひしがれるものだろうか?」と思わなくもなかった。しかし、だからといって「まったくもっておかしい」とも思わなかった。夫がやつれ果ててしまった状態をみて、「そうなってしまうのかもしれない」と思えたのだ。

 だが逆に、夫が死んで妻と子どもが残されたのだとしたらどうだっただろうか。とてもではないが、女性が何も手につかなってしまうとは思えなかった。それは私の「母性に対するリスペクト」なのかなと思ったりもした。

(ところで、自分の死後に夫があれだけ打ちひしがれるのを見たら、亡くなった妻はどう思うのだろうか。そんなことをふと考えた。嬉しいだろうか? 母としては「何やってんの、あんた。サチがいるんだからしっかりしなさい」ってことになるだろうが、夫婦は子どもが11歳になるくらいの長ーい時間を過ごしている。それでなお夫が、あれだけ深いショックを受けるとは……)

 また前出のインタビューで今泉監督は、“ほこり”のシーンについて、

ほこりは、そのまま撮っても、なかなか映らなくて苦労したカットです。ただ、こういうシーンは、男性には細かすぎて、伝わらなかったみたいです。女の人には共感してもらえることが多いのですけれど……。

 と述べている。

 だが私はそうは思わなかった。単に私が女々しいだけなのかもしれないが、自分がホンを書くとしても(不遜だけど)そんなシーンは入れるのではないかと自然に思えた。
 むしろ、「ちょっとベタかな」とすら思った。

 それよりも私が「あぁ、これは!」とシビれたのは、“エプロン”のほうだった。

 いつも母が座る食卓の席、背もたれにかけられたエプロン。死の直後、サチも一度は手を伸ばしかけるのだが、逡巡して、触らない。そのまま何カ月もかけられたままになる。妻の死後、まったく別人のようになるほど打ちひしがれた夫ですら、触らない。まるで「そのエプロンを動かしてしまったら、本当にお母さんが返ってこなくなる」と思われているかのように、エプロンがそこにずっとかけられたままになっている。

 私がそこで「あぁ」と思ったのは、エプロンにはおそらく母の匂いがしみついているだろう、と思ったからだ。放置して時が経てば経つほど、その匂いは失われていく。ようやくそのエプロンを手に取る勇気が生まれたころには、おそらくその匂いはかけらもないだろう。なんと切ないことか……。

 * * * * *

 今泉かおり監督は26歳で会社を辞めて映画学校の生徒になったそうで、当時制作した短編をもとにして作り上げたのが今作だという。本作は、重くて真面目なテーマを持った、視聴者がしっかり受け止めなければいけない良作だと思うのだが、演出面では、まだまだだとも感じた。間の取り方やカメラワークなど、何というか、時々“ひっかかり”のようなものを感じる演出だったような気がした。
 だがこれが長編第一作ならば、それはいわば名刺代わりだ。その名刺代わりの作品を存分につくり、国外でも高い評価を受けるほどに仕上げたのだから、これはすごいことだ。高く評価してしかるべきだろう。
 とはいうものの、いじわるな言い方をすれば、一作目はすべてを注ぎ込むから、良いものは撮れる。
 早く今泉監督の二作目が観たい。