2013年2月25日月曜日

将来はアニメ・映画をつくるかプログラマーになりたい田舎の12歳男児(彼女ナシ)だったーー映画「ムーンライズ・キングダム」を観て


消しゴムに赤いペンで好きな子の名前を書いた


 小学6年生の時、卒論を書かされた。
 
 担任の女性教師の発案だったので自分のクラスだけで、自分はたしか徳川家康について調べて書いたと記憶している。表紙には葵の御紋を描き、その影響で卒業アルバムの寄せ書きに「天下泰平」と書いた(いやはや遠い目、薄目でしか見られない思い出だ……)。当時好きだった子がいて、時々だったか頻繁にだったか覚えていないが、男女数人で一緒に下校していた。こう書くとリア充ぽいが、別にそんなことはなくて、特に付き合ったりデートしたりしていたわけでは決してない。消しゴムにこっそりその子の苗字を赤字で書いて、バレずに最後まで使い切ったら思いが実るというおまじないをやってた、ウブな男児だった。その子に成人式の時に再会して「会うんじゃなかった」というのも今になってみればいい思い出なのだけれど、とにかく当時は普通の田舎の男の子だった。
 
 小学6年生は、田舎の子どもが将来について考える最初のタイミングだったと思う。5年くらいから社会科の授業で歴史や政治についてちょっとかじり、社会の仕組みについて触れるようになった。もうすぐ入学するはずの中学では、定期試験で順位がつけられることになる。高校入試も数年後に控えている。小学高学年の頃のテストの結果で、何となく地元の進学校に進むであろう友達も分かった。ずっと一緒だった友達とももうすぐ別れ、学校はバラバラになってしまう。僕が行った中学校は複数の小学校から生徒が集まるところだったこともあって、中学進学を前に「いよいよ人生が動き出すんだ」という予感が何となくあったように思う(そんな大げさな表現は頭のなかにはなかったけれど)。

 将来なりたいものもいくつかあった。昭和49年の早生まれである自分が、ちょうど6年生の時に「アリオン」が公開された。幼年時代に観た「ドラえもん のび太の恐竜」などを除いて、初めて 「アニメ」というものを意識してみた作品だったと思う。「ウイングマン」もアニメ化された。それらの影響か、アニメをつくる仕事に憧れていた。絵が得意でイラストを描くクラブだかに入っていて、アリオンの絵を描いた記憶もある。また映画「グーニーズ」も人気で、「映画をつくりたい」と漠然と考えたりもしたし、PC-8800シリーズやMSXやファミコンも人気で(僕は持っていなかったけど)、プログラマーにも憧れていた。


 大人になると、「子どもの頃は悩みなんてなかったなぁ」と思ってしまう。だけど『Papa told me』で知世ちゃんも言ってたと思うが、そんなことは決してない。子どもは子どもなりに真剣に悩み、真剣にもがいている。大人からみれば大したことないかもしれないが、子どもは子どもなりに真剣だ。自分の小学生時代を思い起こせば、大した悩みなんかなかったように思うが、当時は真剣にいろいろ悩んでいたのだろうと思う。

逃げる2人が12歳である理由


 映画「ムーンライズ・キングダム」の主人公は12歳の男女だ。2人が運命的な出会いをし、二人で逃避行をするハートウォーミングなコメディ・ドラマだ。いい映画だと思うので、是非映画館で観てほしい。

 少年少女の逃避行といえば「小さな恋のメロディ」 だが、これも主人公たちは11歳くらいだろう。この時期が選ばれる理由はいくつかあるだろうが、11ー12歳くらいの女の子が持つある種独特の魅力もその一つではないかと思う。

 断っておくが、僕はこれくらいの世代の女の子に性的な意味での関心はない。
 しかし第二次性徴が始まる頃、ティーンになる直前くらいの女の子が持つ魅力というものはあると思う。そのタイミングでしかない、はかない美の魅力があり、被写体として取り上げたくなるのはよく分かる。例えば僕は奥菜恵さんが好きだけれど、彼女の代表作はやはり「if もしも〜打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」だと思う。岩井俊二監督が演出したこのTVドラマ当時、彼女は11歳くらいのはずだ。

 こうした世代の、大人への階段を登り始めたもののの独り立ちはできない子どもたちが、大人から与えられた世界に息苦しさを感じて逃げ出したくなるのは、ロジックとしても理解できる。もう数年たってしまうと、今度はもう大人といってもおかしくないので、生々しくなってしまうということも、この世代が選ばれる理由としてあるだろう。

  本作のヒロイン、スージー(カーラ・ビショップ)は、例えばトレイシー・ハイドとくらべて大人っぽすぎる感じはするし、「ちょっとHだなぁ」と思えるシーンもなくはないのだが、彼女のコケティッシュな魅力がそれをギリギリカバーして、観られるものにしているようにも感じた。

 こうやって書いたものの、何も彼女の魅力だけがこの作品の良さだということを言いたいわけではない。彼女が逃避行の相手に選んだ男の子は、冴えないメガネのいじめられっ子だった。本作を観た世の多くの男性は、彼に自分を重ね合わせて「12歳のときにあんな出会いがあったらなぁ」と思うのではないだろうか(主人公は冴えない感じとはいっても、スカウトだからキャンピングの能力が一応ある。抜けたところもあるけれど全然頼りにならないわけでもない)。

 ただ子どもの駆け落ちがうまくいくことなんてほとんどなく、本作でも2人も逃げ出せない。リアリティのある映画やドラマで若い2人が駆け落ちしようとすると、「ワクワクして逃げ出すけど、そう遠くないうちに連れ戻されるか、どちらかが逃避行に疲れて戻りたくなってしまうんだろう」という醒めた見方をしてしまう。

 本作でも2人は最終的に逃避行を成功させられないが、恋まで終わる訳ではない。どういう結末になるかは書かないが、ふつうに考えればハッピーエンドといえる終わり方だ。

 だが僕は、果たして2人の将来が幸せに満ちあふれているのだろうか?と思ってしまった。2人が逃げ出したのは、お互い惹かれ合って一緒にいたいと思ったからで、そのためには逃げるしかなかったのだ。だがむしろ「今の場所から逃げ出したい」という理由も大きかったはずだ。もしかしたら人生を変えるきっかけを、相手に、出会いに求めていただけではないだろうか。それに、おそらく数年後には、周りに気兼ねなく2人で関係を築くことができるはずだが、その間に2人は大人になっていく。登場人物の限られた、島が舞台の本作ではライバルなど出現しないかもしれないが、それでも考えは変わっていくはずだ。いろいろ経験するはずだ。その頃まで2人が、確認し合った気持ちを持ち続けられるのだろうか……。

 本作の場合は、”箱庭の中での出来事”(作り話)であることをつよく演出で打ち出している。だから、そんなことを問うのは無粋・ナンセンスなのかもしれない。そんなこと考えずにただヒタればいいのかもしれない。深夜アニメには主人公が学生の作品が多いが、それらを楽しむのと同じように、「自分の学生時代もこうだったら良かったなぁ」とちょっと切なくなりながらも、まぁとにかく楽しめばいい。

 それでも、”消耗品である”男の立場からすれば、好きな女の子とずっとその関係が続けられるのか、彼女を幸せにできるのか、2人で幸せになれるのかと不安にならずにはいられない(「男が女を守る」なんて時代錯誤、女性蔑視だといわれるかもしれないが)。主人公に自分を重ねればなおさらだ。

 大人になるにつれ、昔は持っていたはずの考えや、感じていたもの、気持ちは次第に忘れてしまう。人間は忘れるからこそ生きていけるともいうが、そうはいっても忘れたくないものもある。だが形のない思い出や気持ちは、いつまでも同じというわけにはいかない。相手があることなら、なおさら関係が「変わってしまう」リスクは小さくない。

 ハッピーエンドを迎えた彼らの将来を不安に思うことが、自分が大人になってしまった理由だろうかと思うと、ちょっと寂しい気がするが、本作の2人は、たとえ出会った時と同じ気持ちを持ち続けられないことが分かっていても、この先何が起きようとも、出会ったことを、そして2人で逃げようとしたことを後悔しないだろう。そうあってほしい。

「自分が12歳の頃にあんな出会いがあったら……」と思わずにいられない、切ない作品だった。

 

2013年2月20日水曜日

「やるやる詐欺」は被疑者も被害者も自分だ

アウトプットの機会を自ら作ることの意義


「やればできるのに」は 「やらずに先送りしていれば、本当はできないかもしれない現実を突き詰められなくて済むということなんだよな」−−。

 先日、セルフブランディングに関する取材をして、こんなことを思って反省した。

 話を聞かせてくださった方が、「アウトプットの機会は無理にでも作ったほうがいい。機会があると強制的にインプットするようになるし、意見をもらえるようになったり知り合いも増えたりする」とおっしゃっていて、しごくもっともだと思い、同時にギクリともしたのだ(記事が未公開なので取材の詳細は伏せる)。

 ここでいうアウトプットは、何も本や雑誌の記事を書いたり講演したりという大げさなものでなくてもいい。ブログを書くのだっていい。何かをインプットしたら、せっかくだからアウトプットしたほうがいいというのはもっともだと思う。しかしそれは「言うは易く行うは難し」で、続けることは難しい。自分もそのハードルの高さを感じている。、このブログのエントリの頻度が下がっていることがそれを証明している。

 だが自分にも書きたいテーマ、調べたい、詳しくなりたいテーマがいくつかある。以前からあるテーマもあれば、最近思いついたものもある。特に思いついたばかりのあるテーマは、大変そうだがやりがいも意義もあると思っている。ならすぐにでも書き始めればいいのだが、つい「このブログ(書きながら考える、考えながら書く)にはテーマがあわないので別ブログにしたほうがいいだろうなぁ」「ちゃんとインプットをある程度して恥をかかないようにしてから始めたほうがいいよなぁ」と思い、始めるのをためらっていた。

 そこで気づいたのは、これではやるやる詐欺ではないかということだ。この詐欺は被疑者も被害者も自分だから、余計にたちが悪い。四の五のいわずに書けばいいわけだから、まずは始めよう。このブログの更新頻度を上げつつ、書きたいテーマについては別のどこかで早々に書き始めたいと思う。

2013年2月18日月曜日

経済・金融の専門家ではない立場からの書評『日本人はなぜ貧乏になったか?』(村上尚己著)

経験はないが、いい記者が持っているモノ

 


 記者は専門家ではない。

 テーマによっては専門家に負けない知識が求められることもあるし、専門家ではないことを準備不足の言い訳にしてはいけない。だが基本的には「専門家ではない」からこそ、専門家に取材して記事を書く。記者は、時間を割いてくれる相手に失礼のないよう、そして聞くべきことをしっかり引き出すために事前勉強はするにしても、それはあくまで聞くための準備であって、読者に伝えるべき情報は専門家が持っている。どの専門家を選ぶかという点には記者(編集者)の考えが反映されるのだが、伝えるべきメッセージを持っているのはあくまで専門家だ。大手メディア所属の記者であるとか、フリーのブロガーであるとか、そうした所属や肩書きはともかく、いわゆる記者・ライターにとって必要なのは、専門家に負けない知識ではない。冒頭にも書いたように、記者は専門家ではないからだ。

 では何が必要なのか。

 数ある中でも最も必要なのは「理解する力」ではないか。

 理解する力があれば、取材で難しい専門用語に惑わされず騙されず、「何がポイントなのか」「どこを伝えるべきなのか」を見つけ出すことができる。のらりくらり逃げようとするインタビューイを前に、だまされずに突っ込むことができる。

 「理解する力」があれば過去の経験は関係ない。例えば教育関係の仕事をしたことがないというライターでも、教育関連のインタビューをしっかり構成できる。投資経験がない記者が、金融機関での取材をこなすこともできる(こう書いていて気づいたが、「理解する力」には、「専門家の話を理解する力」だけでなく、「そのインタビュー・取材をすることの意味」「その媒体で、そのタイミングで発表することの意義」を理解する力も含まれると思う)。

 経験はアドバンテージにはなるが絶対ではない。新聞社の経済部にいた記者がいい経済誌記者になるとは限らない。アニメ誌の編集をやっていたからといって、いいアニメライターになるとは限らない。スタート時点では、経歴のない人と比べればリードしたポジションに立てるが、「アキレスと亀」じゃあるまいし、リードはいくらでも詰められる(とはいえ、記者やライターの採用、起用を検討する際の指標として、過去の経歴・ポートフォリオ 以外のものってそうそうないのだが……)。

 などと書くと、自分が経済紙誌の記者経験がなくFJという経済誌の編集をやっていたことの言い訳のように聞こえてきたが、それは本意ではない。

 いい記者・ライターであるために必要な要素はいくつもある。
 そして私は自分がいい記者・ライターであるとは思っていない。

 しかし、専門ではない話のポイントを掴むのは比較的得意だと思っている。「偉そうに」と思われるかもしれないが、記者なんて誰でも「ここは負けない」「これは得意」ってのがないとやっていけない(中には「営業は負けない」という記者・ライターもいるだろうが)。

「ロジックを立てるのがうまい」人はたくさんいるが


 経済誌の編集部時代には、金融機関で何人ものエコノミストやアナリストを取材した。その誰もが、ロジカルな話を聞かせてくれた。彼らは(嫌味のつもりでなく言うのだが)頭がいいし、自分の意見や考えをサポートする材料を見つけ、ロジックを組み立てるのはうまい。だから、ある命題に対して賛成、反対両サイドの意見を聞くと、それぞれに納得できる話が聞けてしまう。
 例えば自分が賛成に立場に立つ政策について、反対の立場に立つエコノミスト(政治家や学識経験者もそう)に話をいても、「なるほど」と思ってしまう。別に騙されているということではなく、「ロジックを組み立てるのがうまいな」という評価をしているのだが、ともかく金融機関に勤める人たちはこうしたことに長けていると思う。
  当時、取材をさせてもらった多くのエコノミスト、専門家の中でも、つくづく「なるほど」と思わされ、自分なりに納得できる話を聞かせれくれたのが、マネックス証券のチーフ・エコノミスト村上尚己氏だ。

 何だかこの流れで紹介すると、かえって失礼に聞こえてしまうかもしれないが、それはまったくの誤解だ。氏の取材で受けた印象は、「話が分かりやすい」というだけではなかった。話が分かりやすいだけの人なら結構いる。そうではなくて、「信頼できる議論を展開している」という印象といえばいいだろうか。自分のもともとの意見に近いからそう感じるのだろうと言われるかもしれないし、それは否定できない。だが村上氏は、すでに経済誌の編集記者ではなくなった私が今なおレポートや発言をウオッチしている数少ない専門家の一人だ。経済や金融の分野で何かコトが起きる度に、「村上さんは何といっているだろうか」と気になるし、「この事象をどうみればいいのか村上さんの見方を拝見しよう」と時折レポートも確認している。

 その村上氏が単著としては初めてという『日本人はなぜ貧乏になったか?』(中経出版)を上梓した。発売翌日に購入して早速読んだが、これは分かりやすい、いい本だと思う。知らず知らずに信じこんでしまっていたいくつかの事柄、説明のできない事柄に対して、明快な否定と説明をしてもらえた感じだ。
 既に”村上推し”というバイアスがあることを明らかにした、経済・金融の専門家でも現役記者でもない私が薦めても説得力はないのかもしれないが、実際売れているようで、担当編集者のツイートによるとすでに3万部を突破したという。

 
 一見、装丁がおどろおどろしい感じだったので、トンデモ本と間違えられやしないかと偉そうにも思ったが、杞憂だったようだ(失礼しました)。

 本書は21の通説に対して真相を明示し、その説明をしていくという形をとっている(これは同じ中経出版から山内太地さんが出された『東大秋入学の衝撃 』と同じような構成だ)。その通説の一部を見ると、

「かつての『がんばり』を忘れたから、日本人は没落した」
「90年台バブルの崩壊は仕方がなかった」
「人口が減少する日本が成長できないのは、構造的な宿命だ」
「日本のデフレは、安価な中国製品が流入したせいだ」
「日銀の金融政策では、物価を動かすことなどできない」
「日本はインフレ目標政策をすでに導入している」
「お金を刷るだけでいいはずがない。構造の抜本改革を優先せよ」
「『右肩上がりの日本』は幻想。低成長の成熟社会を目指せ」

−−などが並んでいる。筆者はこの21の通説を21のウソと断じ、誤解を解いていく。

 少なくともここに挙げたいくつかの通説を読んで、「え?そうなんじゃないの?」「そう信じてた」という方は、まず読んでみてほしい。その上で自分はどう思うのか、考えてみてはどうだろうか。筆者は証券会社のエコノミストだから、「ポジショントークだ」と思う人もいるかもしれないが、読まずにそう決めつけるのはよくない。

 本書ではまた「おわりに」でちょっと驚かされた。村上氏の同僚でもあるマネックス証券の広木隆さんがZAi ONLINEの記事で紹介されているが、筆者の熱い思いがつづられているからだ。インタビューイからこうした熱い思いを聞けることはなかなかないから、氏の熱い思いを目の当たりにして、驚き、感銘を受けた。

 円安・株高を期待する反面、ここまでデフレが長く続くと、「いくらアベノミクスとか言っても所詮春くらいまででしょ」「持って参院選まででは」と弱気な見方をしてしまうもの。デフレには辟易していた自分も、後者の見方のほうが強くなっていた。
 しかし本書を読んでみて、不安と懐疑的な見方のほうが強かったアベノミクスに対して、多少は期待が持てるようになった。


……「多少かよ」というツッコミは、読んだ方からのみ受け付けたいが、私も本書を読んで、すべて鵜呑みにしているというわけではない。筆者とは違う見方をしている部分も(マイナだが)ある。また例えば、『60歳までに1億円つくる「実践」マネー戦略』で村上氏とともに著者に名を連ねている内藤忍氏は、アベノミクスにはかなり否定的とのこと。村上氏とは見方は違うわけだが、私は内藤氏の見方も信頼している。こうして異なる立場の見立てを吸収し、自分なりの理解や見通しを組み立てているつもりだ。


「アベノミクス」の行方は私たちの将来に大きな影響を与えるはずだ。もし積極的に情報を得ようとせずにいろいろな判断をしているなら、先行きの見立ての正誤や可能性を心配する前にやることがあると思う。