2014年7月31日木曜日

甲子園の過酷を汗と涙と美談で覆い隠すのはやめるべき

Webメディア「こむすぽ」に寄せる記事のネタとして、高校野球のことを書けないかと考えた。

© DX Broadrec


最近では、タイブレーク制の導入などの話が持ち上がり、ダルビッシュ有選手が学年ごとに投球回の制限をつけることを提案したことが報じられたが、少なくともそれくらいは必要だと思う。そもそも、春夏の甲子園は抜本的な改革が必要だ。

あの炎天下、連日試合をさせられ、勝ち残れば17−18歳の若者が100球も200球も投げた翌日にまた投げる……。それを汗と涙と美談というフタで覆い隠すのは時代錯誤も甚だしいと思う。

こういうことを書くと、「高校球児の夢を壊すのか」とでも言われそうだけれど、何も甲子園なんかやめてしまえと言っているのではない。一高校スポーツにしてはマスコミで取り上げられ過ぎな気もするが、そこで活躍した選手はプロ野球選手になることも多いし、プロ野球は依然大きなビジネスなわけだから、大きく取り上げられるは仕方ないだろう。人気や注目のネタは大きく取り上げられるものだ。いくらマイナースポーツが不平等を訴えたところで、そもそも平等である必要もない。

だが、それこそ「肩を壊してでも投げる」というようなことを美談にしていてはいけない。子どもを教育し、指揮管理する責任のある大人まで一緒になって、汗と涙で目を曇らせてはいけないと思う。甲子園大会の期日をのばせば、球場や阪神タイガースの興行に影響があるのだろうが、それは結局大人の都合だろう。

延長回数の制限やタイブレーク制の導入という話がでたのもいい機会だから、高校野球ファンこそ考えて、ファンとして声をあげてもいいのではないだろうか。

ところで、この話を考えていてちょっと気になって高校球児の数を調べてみたら、意外なことが分かった。少子化で子どもは減っているのに、高校球児は増えているのだ。

文部科学省の公表による高校の生徒数は、H25年度(2013年度)で332万人。一番多いときで平成元年度(1989年度)の564万4000人。その次に多いのが昭和40年度(65年度)の507万4000人だ。一番多い時の6割くらいにまで減っている計算になる。

出所:文部科学省

しかし日本高野連の硬式野球部員数統計によると、最新の2014年5月現在で17万人、ウェブサイトで公表されている最も古いデータで昭和57年(82年)の11万7000人だ。この間、右肩上がりで増えたわけではないが、増減を繰り返しながらも緩やかに増えている。また、高野連の加盟校も3488校(82年)から4030校(2014年)に増えている。

出所:日本高野連ウェブサイトデータより作成

文部科学省のデータは昭和23年度からと古いので、高野連が公表している昭和57年以降のものだけカットしてみるとこうなる。
高校生は減っているなかで、球児が少しずつ増えていることは分かる。

高校生の数がすなわち15-18歳の男女の数とは限らないまでも、これはなぜなのだろうか? 識者や専門家の意見を調べてみたい。

2014年7月25日金曜日

言葉の通じない国で2年収監されたら……壮絶すぎる実話の映画化「マルティニークからの祈り」を観て

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コロンブスが「世界で最も美しい場所」と呼んだ場所を知っているだろうか。

ベネズエラ沖のカリブ海に浮かぶ小島・マルティニーク島だ。

南米のギアナと同じフランスの海外県で、広さは1100平方km程度。ちょうど香港くらいの大きさで(日本で一番小さいのが1877平方kmの香川県)、人口は40万人程度。小泉八雲やゴーギャンも滞在したことがあるという。観光局のウェブサイトをみると、自然が豊かでダイビングが楽しめ、ラムのおいしいリゾート地であることが分かる。

ある韓国人女性が、マルティニークの刑務所で1年を過ごし、その後9カ月も仮釈放という名の軟禁生活を余儀なくされた。この島に移送される前のパリでの3カ月を含めて「756日間」も苦しい生活を強いられたーーそんな実話をもとにした映画「マルティニークからの祈り」を試写で観た。




あらすじはこう。自動車整備工場を夫婦で営み、夫ジョンベ(コ・ス)、一人娘ヘリン(カン・ジウ)と3人で慎ましやかに暮らしていたジョンヨン(チョン・ドヨン)だが、夫が保証人になっていた知人が自殺したことがきっかけで借金を背負うはめになり、家を追い出される。生活に困窮した彼女はやむなく、金の原石をフランスに運ぶ裏仕事を引き受ける。だが到着した空港で、それが実は麻薬であることが知らされる。麻薬に身に覚えはないがフランス語は話せず、また大使館も当てにならないなかで、先の見えない絶望的な日々をおくる……というものだ。


主演は、カンヌで主演女優賞を穫った(シークレット・サンシャイン)チョン・ドヨンで、さすがの演技力。子役のカン・ジウの演技もいい。「なぜだか理由は分からないが母親と会えずに寂しがる子ども」という状況を思うだけで涙腺が緩んでしまうが、劇中の

「ママ、あと何回寝たら戻ってくるの? ママの顔、忘れちゃいそうだよ」

というセリフは反則級のヤバさで涙がこらえられなかった。






ちょっとネタばれします。



自分がリアリティのある演出だなと思ったのは、ジョンヨンが最後、仁川空港に降り立ったときのヘリンの反応。「ママ!」と叫びながら走り出してスローモーション……みたいな、どこかの陽気な国ならありそうな演出ではなく、彼女は母の姿を見ても照れたのか、父の後ろに隠れていた。今思えばとりたてて気の利いた演出というわけではないものの、4歳から6歳までの約2年間、母と離れて過ごした女の子なら、ああいう反応をするだろうなぁとしみじみと思わされた。




いい映画だと思うので、”敢えて”気になった点も書いておく。

壮絶な実話がもとになっていることや、チョン・ドヨンの演技などはとてもよかったのだけれど、とても濃い2年間を2時間にまとめたためか、事実の説明を受けたものの悲壮さがあまり伝わってこなかった。いや、伝わってきたのだが、「もっと来いよ!」と思ってしまった。一人で過ごす時間の長さ、その過酷さ、辛さがもっと感じられてもよかった。フランス語はともかく英語が分かれば何とかなったかもしれないのに、英語すらできないおばちゃんがパリで捕まったら、ビビり具合はもう相当だろう。それに、収監された刑務所内の環境は劣悪ではあったが、男性刑務所の内部が描かれた映画やドラマをたくさん観ているからか、「こんなもんやないだろう」と(収監されたこともないのに)思ってしまった。

もしかしたら、「英語すらできないんだからしゃーないやろ」という気持ちがあって、同情できなかったのかもしれない。



でもチョン・ドヨンとカン・ジウの演技が観られたこと、こういう怖い実話があったのだということを知れたこと(あとトマトの唄を聴けたこと)だけでも、観る価値はあると思う。



2014年7月1日火曜日

セクハラヤジと水漏れ事件で感じたイタい加害者の存在 



先日、オフィスビルで水漏れ被害を受けた。

こちらは一方的な被害者なのだが、一ヶ月たってもお詫びもなく業を煮やして話し合いの場を持ったのだが、相手は外国人で文化が違うのか、詫びようとしない。相手の部屋の大家はこちらの大家と違っており、向こうは向こうで保険会社や大家と話し合いをしたのだろう、「自分たちに責任はない」と言い張る(実際はもっとひどい言葉だった)。訴えれば絶対に勝てる自信もあったのだが、こちらの側の大家さんがとてもいい人で、大家同士でもめさせるのはかわいそうなので、最低限壊れたキーボードの買い替え費用だけで終わらせることにした。

そこで思ったのは、向こうの頭の中には「お金を払う=責任がある=悪い」という図式があったのではないかということだ。

本当に自分たちが悪くないと思っているのだとしたら、相当イタい。けれど、そうではなくて、すでに向こうは話し合いをして、賠償責任は大家なり保険会社なりにあるということを確認していたのだろう。とするとやはり、「自分たちにお金を払う義務はない」だから「悪くない」、そして「謝る義務はない」ということになったのではないだろうか。

水が階下に漏れたのはビルに問題があったのだとしても、普通に使っていれば漏れなかったわけで、100%問題が借り主になかったわけではないと思われる(このあたりの説明は先方の大家が要領悪くよく分からないが、借り主の管理がまったく問題がなかったとは到底思えない)。この場合、日本人的感覚(敢えてこういう言い方をするが)からすると、まずは申し訳なかったとお詫びをしたうえで、そこではじめて「被害の賠償については保険会社から……」ということになるのが普通の感覚だと思う。

こういうことがあってすぐ、都議会のセクハラヤジ問題があった。

とかくセクハラでは、加害者自身が加害者であることを自覚していないことが多いように思えるが、今回の事件で驚きだったのは、どんなに責められても「あれはセクハラじゃない」と言い張る人が見受けられたことだ。発言などの加害行為をしてなお気づかないとしても、言われた相手がハラスメントを受けたと言っているのに、「違う」というのは何を根拠にそういえるのか、まったくもって理解しがたい。 

セクシャルハラスメントのsexをいわゆる性交(をにおわせる)という意味で捉えている人がいることも驚きだったし、性別に由来するのだと言われても認めないのは、これもイタいとしか思えない。

こういうことをいうと、塩村議員を擁護するのかとか言われそうだけれど、別に擁護もしないし、政治家として支持しているわ分けでもない。それに、そもそもそんな過去は今回のことに関係ない。

彼女はたしかに議員になる前に年の差婚についてヒドい物言いをTwitterでしていて、過去とはいえ「ひどいことを言うなぁ、信じられん」とすら思う。

だが、だから何だというのだろうか。相手が誰だから、どんな人だから、あの発言が許されるわけがない。塩村議員がヒステリックになって加害者であることを世にアピールしたり、自分の政治家としての知名度をあげようとしたりすることを容認するつもりはない。だけど逆に、マスコミやネット住民が、今回のセクハラヤジ発言とは直接関係のない過去を掘り起こして、彼女が反論するに値する人間かどうか検証することも容認できない。

過去は過去。今回のセクハラはセクハラだ。



被害を受けたと主張する人が出たら加害行為は当然あったのだ……とは言えない。それはセクハラだってそうだ。えん罪だってあり得る。それに、ときに人は自分の被害は大きく言うものだ。被害者の顔をした加害者だって世の中には居る。しかし、加害者であると指摘をされた人がまずすべきなのは、可能な限り客観的な視点から自らの行為が被害を生んだかどうかを検証することだ。その結果を真摯に受け止め、謝るべきは謝ることではないかと思う。もちろん、反論すべしという結果であれば、しっかり反論すべきだ。何か言われたら謝る、というのはおかしい。



しかし、こんな当たり前のことがなかなかできないんだよなぁ……。謝るべきと思ったらちゃんと謝ろう(=謝らなくていいと思ったら謝らない)と思った2つの事件でした。