2014年9月8日月曜日

新潟のかっこいい11歳が一人でつくる新聞『別府新聞』



先日偶然、フジテレビの深夜で放送された第23回FNSドキュメンタリー大賞ノミネート作品 『小さな新聞社 社長は11才』を録画して観た。新潟総合テレビ制作の番組で、新潟県十日町に住む別府倫太郎君(11)が一人でつくっているウェブ新聞の話だ。番組紹介をみたとき、「どうせ街のほのぼのネタかなぁ」くらいに思って気軽に録画したのだが、とんでもなかった。驚き、感心し、考えさせられ、そしてとても大切なことを思い出させられた気がした。嫉妬のような複雑な感情を抱いた。

リンク 別府新聞

倫太郎君は病気を抱えていて、薬の副作用などからいじめがきっかけで学校には行っていない。僧侶に自分の疑問をぶつけて「死と生」について語り合い、ジャズが好きでコラムを書き、吉本隆明・糸井重里共著の『悪人正機』が面白いといい、『暮しの手帖』や『ブッダ』を読み、「本質」について、「限界」について語り、病気は自分だから戦わない、戦うのは病魔だという彼。「学校に行っていない思想家」という別名を持つというが、まさに言い得た別名だと思う。

彼はまた「大人っぽい」とよく言われるようだが、それもうなずける。

今の彼をつくりあげた要素に病気があるのは間違いない。だから彼がいま作り出しているものや、周りを魅了する性格や生き方だけをみて「すごいなぁ」「いいなぁ」というのはあまりに無邪気だ。だから嫉妬などという言葉を使っていいものか……とは思いつつ、それでも唯一、無比であることにはやはりため息をつくほど感心してしまうのだ。

彼は知りたいと思ったことがあれば、取材に行く。大変だといいながら自分の言葉で感じたこと、考えたことを発信する。与えられた疑問や問題を解消し、乗り越えるのではなく、自分が生きていて感じた疑問や問題を、自分で解決しに出かけて行き、考え、答えを出し、また時には答えが出ないまま、文章にし、発信している。これはメディアのあるべき、理想的な姿の一つではないかと思う。

「こんなことやったらいいな」「面白そう」「あんなことが知りたい」「これはどうなっているんだろう」……日々暮らしていていろいろな疑問や気づきに出合うが、思って終わりにしてしまうことが多い。妥協せずしっかりと向き合い、形にすることを面倒がらない。簡単そうで難しいことだ。

彼の姿をみて生じた疑問の一つが、「教育はこうあるべき」という画一的な考えがあまりに広がっていはいないだろうかということだ。そもそも教育は何の為にしている(与えている)ことなのだろうか。

知りたいという欲求が生まれれば取材に出かけ、発信する行動力がある彼の日常をみると、学校すら必要ないのではないかと思えた。誰もが彼のように感じ、考え、行動することはできないだろうから、学校がなくなってもいいというわけではない。かく自分も、子どものころ同じことができたかといえば、絶対に無理だった。

いや、「子どものころ」と限定するのはカッコつけだ。今だってできていないと思う。

子どもに教育を与えるのが親の義務だとして、学校に行かないという彼の選択を受け入れ、かつ学校に行っていない彼が“しっかりと”生きている今を生み出している家族は、その義務を果たしていないと言えるのだろうか。また、自分が親として同じ立場に立ったとき、果たして本人の望む生き方を支えてあげられるだろうか。

番組を観て、思い出すにつけ、また別府新聞を読むにつけ、考えるべきこと、おざなりにしていた大切なことを思い出させられる。録画を観てすぐに別府新聞にアクセスし、TWやFBでフォローし、記事もいくつか読んだが、すべては読み切れていない。ザッと目を通して終わりではなく、読みながら考え、考えながら読みたいと思う。ポレポレと。



2014年9月2日火曜日

なぜ日本の家にはプールがないのか?

© ヒグラシホームプール

この夏、泳ぎの練習のため区のプールに何度か通ってふと思った。

「なぜ日本には自宅にプールがないんだろうか?」