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2019年11月25日月曜日

感想に困る映画「アナと雪の女王2」



「アナと雪の女王2」は感想に困る映画だ。

正直、前作と比べるとエンターテインメントとしてはパワーダウンしていると思う。

たとえば楽曲。破壊力ある「Let it Go」を含む前作の楽曲と比べ、今回は「Into the Unknown」は聴きごたえもありキャッチィでもあったが、ほかはそうでもなかった。

ストーリーも、前作は、すごく乱暴にいえば、自分のチカラに嫌気がさしたエルサが皆から逃げ、それをアナが家族の愛を示して連れて帰るだけだった。

今回はなぜエルサが魔法をつかえるようになったのか、その理由・背景が描かれるのだが、両親の話やその上の世代、街の成り立ちなども含めて紹介され、また登場人物たちが行く場所がどんどん変わるため、正直複雑だ。

でも、だからこそ「すごく面白い」とは思わなかったのだけれど、「また観てみたいな」という気持ちが芽生えたような気がする。

いい面ももちろんある。たとえば、あいかわらず映像は美しい。エルサの造形は前回よりももっとエロくなってないか?と思うが、水や氷、岩や葉、森、霧など自然の表現も素晴らしい。

終わり方、決着のさせ方もなかなか良かったと思う。観ていてエルサが街の中で行きていける気がしなかったから。

途中に差し込まれたオラフの状況説明もなかなかよかった(ただ新キャラのリザード?は余計だった気がする)。

前作では吹き替え版も松たかこさん、神田沙也加さんが姉妹を演じて人気だったというから、今度は日本語吹き替え版も観てみたいとも思う(おそらく配信されてからになると思うが)。

ということで、filmarksでは評点3.2(また観てみたいとは思う作品)。

しかし、このところディズニー作品はなんというか、前作アナ雪のようなメガヒットが出せていないのではないだろうか。アラジン、ライオンキングの実写版と、想像・期待を超える作品ではなかったように思う(マレフィセント2は観ていない)。

今ちょっと調べたら、アナ雪以降では『ベイマックス』(2014年)『ズートピア』(2016年)『モアナと伝説の海』(2017年)『シュガー・ラッシュ:オンライン』(2018年)なのか……あれ?意外と……。


2019年11月21日木曜日

2018年映画観た映画リスト

© FOX

2018年は映画館と配信で80本近くの映画を観ました。
(本記事はnoteで2019年1月5日に公開したものの再掲です) 
ほとんどはFinlmarksで感想を書いたのですが、上位のものをまとめてご紹介したいと思います。

2018年2月13日火曜日

日本語の横書きはいつ左右反転したのか

 © こうの史代・双葉社/「この世界の片隅に」製作委員会

今さらながら映画「この世界の片隅に」を観た。感想はFilmarksで。


作中、各種のビラが出てくるのだけれど、最初は横書きが右から左だったのが、途中から左から右になっていた。そういえば、いつから日本語の横書きは左から右になったのだろうかと思ってググってみた。

2017年8月27日日曜日

実写の名作を20年以上後にアニメでリメークする意味があった  『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』

(C)2017「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」製作委員会

1993年8月26日。大学2年生だった。長い夏休みの最中で、サークル活動とバイトに精を出しながら、英語の勉強と称してたくさん映画を見ていた。そのほとんどはレンタルビデオ(Blu-rayでもDVDでもなくVHS)だったけれど、とにかくコンテンツにたくさん触れて吸収していた。

その過程でそう思うようになったのか、自分も映像が作ってみたいと思うようにもなった。その数年後の就職活動では、新聞社と同時にテレビ局も受けた。

1993年8月26日。今から24年前、フジテレビの『if もしも』という枠で、ドラマ『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』が放映された。もちろん自分も見た。そして気に入り、忘れられない作品になった。

2017年7月6日木曜日

ゴースト・イン・ザ・シェルは2ができるのか? キングコングが新作で大きくなった理由

モノづくりをするときはいきなり金の話ではなく、誰が、どんなものをつくるかが先にあるべき--。

それが正しいのかどうか分からないが、少なくとも日本のIP(知的財産)をつかってハリウッドで映画をつくるときの流れはそうなるという。


これはデジタルハリウッド大学で行われた講義「ゴースト・イン・ザ・シェルに見る 日本のIP(知的財産)を基にしたハリウッドでの映画製作の意義と将来性」で、講師の藤村哲也氏が話していた内容だ。藤村氏はギャガを設立した映像業界の大物だそうだ。

2012年6月9日土曜日

終戦後のブラジルで『国賊』と言われた理由――映画『汚れた心』を観て



 第二次世界大戦直後、国交の断絶により日本からの情報が立たれたブラジルの日本人コミュニティ。日本の敗戦を受け入れられない移民と、ラジオなどで敗戦の報を聞き「事実」として受け止めた移民たちは対立、前者は後者を「国賊」として襲い、殺害した。23人が殺され、147人が負傷。381人が襲撃に関与したとして検挙されたという。


 2000年にジャーナリスト、フェルナンド・モライスが発表した同名のノンフィクションが、本作『汚れた心』の原作だ。ベストセラーになった同書を映画化したのはブラジル人監督ヴィンセンテ・アモリン。メインキャストは伊原剛志、常盤貴子、奥田瑛二たちで、セリフはほぼ日本語だが、本作はブラジル映画として製作されている(伊原はウルグアイで開催されたプンダデルエステ国際映画祭で主演男優賞を受賞している)。


 恥ずかしながらこの事実を知らず、予備知識もなく試写を観た。


 敗戦が事実だと本当は分かっているはずなのに「日本が負けるはずがない」と思いこもうとする。大和魂、皇国臣民のあるべき姿を“曲解”し、早々と敗戦を認めた同胞である日本人たちを“国賊”と決めつけ、殺めていく。そうすることで、心の安寧をかりそめと知りながら求める……。
 その行為は狂信的で身勝手だが、果たしてそれを批判できるだろうか。
 アモリン監督もインタビューで、「ブラジル社会の偏見に打ち勝ち、日系コミュニティーを結束させ、アイデンティティーを保つ手段として必要だったのだと思う」と述べている。認めるわけではないが、そういう状況になってしまったことが分からなくはないということだ。


 もし自分があの場にいて、守るべき家族があるのに、命を懸けて「王様は裸だ」と言えただろうか。家族を、そして自分の身を守るために仲間を殺せるのだろうか。


 その意味で、主人公夫婦に子どもがいないのは演出の一つのポイントだったのではないか(日本語もポルトガル語も分かる近所の女の子が主人公夫婦になついていて、頻繁に出入りしていることは、主人公たちの葛藤を深める要因になっていたが)。


 また主人公夫婦の濃厚なベッドシーンが何度かあったが、そこからは、お互いの愛情の深さというより、異国の地で肩を寄せ合って暮らす2人を取り巻く閉塞的かつ絶望的な状況、希望を持ちながら支えあって生きていくしかないという、何ともいえない切なさばかりが感じられた。
 だからこそ夫のしたことを知った妻の葛藤は深いものだっただろう。妻が行動を起こすまでに考えたことを想像すると、やるせない気持ちにしかならなかった。
 自分だったら、果たして前向きに生きていけるだろうか……。


 自分の所属するコミュニティの趨勢にあらがえず、いけないとと知りながらも保身のための行動を起こす。むき出しになるエゴ、理想と本音の間の葛藤。本作はラース・フォン・トリアー監督の『ドッグヴィル』のようだと思った。腹にズシリと重いテーマ、演出だが、観て損はない。いや、観て、考える機会を持って損はない。


 アモリン監督はまたインタビューで、「映画は原理主義と寛容の物語。この問題は現在も存在する。イラク戦争、パレスチナ紛争もそうだ」と述べたという。時代や場所は変わっても、人間の社会が生む問題、ナショナリズムやマイノリティに関わる問題は、似たような構造で存在している。その意味でも、本作は、日本やブラジル以外の国・地域でも高く評価されておかしくない作品なのではないだろうか。