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2014年5月13日火曜日

山手線で会ったアイドルとTwitterでふぁぼったGALETTeの差



ちょっと前の話。

渋谷駅で山手線にアイドルグループの女の子たちが衣装のまま20人くらい乗ってき た。きゃいきゃい楽しそうに話してて、「電車移動大変だなぁ、売れるといいねぇ」とか目を細めて思ってたら、空いた自分の隣にそのうちの一人が座った(3人がけで1人分空けて)。やらしくならないように「グループなんですか?」と聞いてみたら、めちゃめちゃ素っ気ない、イエスともノーともつかないような反応。その暖簾に腕押しぶりたるやハンパなく、聞いたこっちが「えーーーー」と声が出そうになるほどだった。「聞き方がアヤシかったんだろうが!」とか言われそうだが……。

2013年9月6日金曜日

ライブバージョン聴きたい?聴きたくない?ーー「好き」とはどういうことか

※画像はイメージです

ダウンタウンの松ちゃんがずっと昔、トークで「好きなアーティストのライブに行って好きな曲が演奏されると思ったら“ライブバージョン”でCDと全然違ってて、『余計なことをするな』と思った」と言っていて、「あぁ、その気持ち分かるなぁー」と思ったことがある。

 しかしその後しばらくたってから、「あれ? 間違いだったかも」と思い直した。

 なぜなら、「好きなアーティストが歌うのなら、どんな曲でもどんな歌い方でも聴きたいと思うものではないか?」と思ったからだ。たとえ聴いたことのないような曲でも、その人が歌うだけで聴きたくなる。有名な曲でなくても、たとえ無名アーティストの曲のカバーでも、とにかく何でもよかったりする。それが「好き」ということではないかーー。

 それに、CDと同じ歌い方が聴きたいならCDを聴けばいいわけだ。その瞬間、好きなアーティストが歌いたい歌い方をして、それを聴ける経験は、その日その瞬間、その場にいたからこそでもある。これはチケットを取ってわざわざ出かけて行ってはじめて体験できることだろう(DVDやBlu-rayで後で見られるし、最近は配信もしているが)。

 その一方、さらに改めて考えてみると、好きなアーティストの楽曲だからといってすべてが好きというわけでもなかったりする。

 そこで、「本当に好き」とはどういうことなのだろうかと考えた。
 自分なりの結論をいってしまえば、「好き」のあり方はいろいろあり、大別して「全肯定」と「是々非々」がある。また「こういうあり方でないといけない」ということはないから、それぞれの「好き」を楽しめばいい、ということになると思う。

 ネットでは、あるアーティストの狂信的なファンが、そのファンに対する批判的なコメントをした人に対してとにかくdisるという光景が見られる。自分も以前、あるアーティストに対してかなり気を遣いながらも、能力的にまだまだである点について指摘したら、(かなり気を遣っていたにも関わらず)感情的なリアクションをされたことがある。そういう場合、まず冷静な議論はできないからスルーカを発揮するよりほかない。

 偏見かもしれないけれど、そういう思い込みの強いファンは若い人に多いのではないかと思う。何もジャニーズのファンが皆そうとは言わないし、若くてもマチュアな楽しみ方のできるファンもいるだろう。逆に年を取ったイタいファンがいることも承知しているが。

 アイドルファンの中には楽曲の善し悪しを問わず、支えるためにCDを買うという層がいる。彼らは好きなアイドルの活動(CDリリース)に対しては「全肯定」しているといえる。それに対して批判的な意見もあろうが、でもCDが売れなきゃ活動が続けられないわけだから、買い支えるというのは一つのあり方だろうと思う。
 ただその中には「買うけれども内容についてはダメなものはダメという」という人もいるかもしれない。そう考えると、セールスという尺度だけでは、そのCDリリースという活動に対しての評価はしきれない。

 「全肯定」という好きのあり方について感じるのは「羨ましい」ということだ。とかく批判をするのがカッコいい、ツッコまなきゃいけないと思いこんでいる人が多い時代にあって、「とにかく好き」といえる対象を見つけた人は幸せではないだろうか。その良さが分からない周囲の人間からみたら「??」でいっぱいかもしれないが、何かに、誰かに夢中になれること自体はとても羨ましいと思う。

 自分には今、好きなアーティスト・歌手が数人、数グループいるが、必ずしも「全肯定」はしていない。でもそれが「本当に好き、ということではない」とも思っていない。

※ 本エントリはリップシンクに対する批判ではありません。
 

2013年5月26日日曜日

参考にならないランキング

女性声優の歌手デビュー続々、世界観の構築でアプローチする新世代

 声優のCDデビューなんて珍しい話ではないと思いますが、この記事では、最近はアニメ・声優の作品を聞いてこなかった音楽ファンも聞いているのでは、とのコメントが紹介されています。あくまで一店員の単なる印象でデータはないですが、まぁそうなのかもしれません。別に悪いことでも不思議でもないのですが、それよりもランキング、特にオリコンについては、何でもかんでもいっしょくたのランキングで測るのをやめたほうがいのではないかと思います。

 海外ではラジオのジャンルにしても、音楽の種類で分けられていると思います。カントリーとロックが一緒になってることって無いのではないでしょうか。
 日本では演歌とアイドルとクラブ系と…すべて同じランキングで紹介されています。専門のチャートもあるのでしょうが、あまり聞きません。

 ランキングの数が増えると紹介が大変だとかマニアックになるとかいった弊害もありそうですが、制作者は分けて欲しいと思っているんじゃないかと思います。

 オリコン的には分けたくないのでしょうか。ランキング一位の作品が複数あれば、プロモーションに使われる回数も増える気がしますが、ありがたみがなくなってしまうでしょうか?

 しかし握手券付きのAKBのCDばかり並んだチャートを見ても何の参考にもなりません。CDが売れないという時代に一人勝ちしている、売りまくっていること自体は否定しないし、すごいと思いますが、参考にならないランキングを見せられても嬉しくもなんともありません。

 ところで冒頭の記事は、脱力な締めとなっております。
 
声優の音楽活動が定番化してきただけに、音楽性の一面だけではアピールしにくくなっている。今後は個人のキャラクターが垣間見えるような世界観を見せることで他者との差別化を図る声優が増えていきそうだ。


 ん?だから?どういうこと?

2013年5月13日月曜日

萎えるアニメ 萎えないドラマ――OP&ED考

 

 NHKアニメ「はなかっぱ」のOPがスパガ、EDがDream5とそれぞれ別のアイドルグループの曲になっている。特にEDはアイドルたちと着ぐるみのはなかっぱ、ももかっぱちゃんが一緒に踊っていてちょっと驚いた。キャラの着ぐるみは他のアニメにもあるが、主題歌を歌うアイドル、歌手と一緒に登場しているのは初めて見た。多分ほかにも同様の事例はあるのだろうが。この「はなかっぱ」の選曲の是非というより、アニメのOPやEDの曲選定はいつも考えさせられる、ということについて書いてみたい。

 まずタイアップどうかはともかく一番大事なのは、世界観とあっているかどうかだ。一時期、人気アーティストの楽曲をただ主題歌にしただけと思えるケースが結構あった。また人気が若干落ち目になったアーティストがどんな理由か知らないが()採用されることもあった。そういうのが一番萎える。

 人気アーティストの楽曲を使うことは、アニメファン、原作ファン以外の、そのアーティストのファンも取り込むことが期待できるメリットはある。

 しかし、それは邪道だろう。

 主題歌を選ぶのは監督や演出ではないのだろうから、押し付けられた制作陣とて忸怩たる思いはあろう。だが大人の事情で選ぶ余地がなかったとしても、視聴者全員が忖度してくれる訳ではない。そんな義務はない。ファンにしてみれば、OPやED含めた世界観を楽しみ、浸りたい。その統一感やいい意味での裏切りを期待しているし、値踏みしている。

 だからアニメの楽曲は世界観に合わせたオリジナル制作が一番いいように思う。ただ既存の曲にピッタリのものがあれば使ってもいいだろうし、アーティストに発注して作ってもらってもいい。


 最近のアニメはあまり観ていないが、それでもジョジョはOP、EDともによかった(一期、二期とも。神風動画の映像がさらに引き立ててた)。「宇宙兄弟」も楽曲やアーティストの選択にセンスがある気がする(進撃の巨人は悪くないけど、騒ぎすぎな気も)。

 OPやEDも含めて作品と考えるか、その部分をPRと考えるか、ということだろうか。


 と、ここまで考えて思ったのは、ドラマはどうだろうかということ。ドラマはタイアップじゃない楽曲はなかなか考えづらいから、よくよく考えるとドラマの筋や世界観とあってない楽曲ってかなり多いんじゃないだろうか。

 でも「ドラマはそんなもんだ」と思っているからか、楽曲の良し悪しは気にするものの、ドラマとの親和性、統一感みたいなものはあまり気にならない。これはなぜだろうか……。もしかして自分だけだろうか。よく考えてみれば、海外ドラマなんてテーマ曲は無いか、ジングルの長いやつみたいな、ちょっとしたインストだけってことも結構ある。


 楽曲は覚えてるけど本編はあまり…という作品もある(アニメ、ドラマとも)。本編が後々まで記憶されるほどの良作であれば、楽曲だって合わせて記憶されるのだろうが、ファンとしてはやはり、「なるほど」と想えない選曲はしてほしくないものだ。

2013年5月9日木曜日

AKB48研究生失格でも乃木坂46メンバーになれる理由


 元AKB48研究生の西川七海さんが乃木坂46で再デビューするそうです。AKBの研究生をやめたのは、「AKB48研究生としての自覚に欠けた軽率な行動を取った」というのが理由だそうですが、AKBの公式ライバルである乃木坂46ではその行動は問題ないという認識なのでしょうか。

 その「軽率な行動」というのが、男性とプリクラを撮ったことのようです。AKBは「恋愛禁止」ということになっていて、そのプリクラ撮影がひっかかるということなのでしょう。一時期、秋元プロデューサーが「恋愛禁止なんて言ってない」と述べたというニュースがありましたが、Google+では禁止と書いています。どうやら乃木坂も同様に恋愛禁止ということになっているようなので、これはつまり乃木坂はAKBよりも倫理のハードルが低いということなのでしょうか。乃木坂としては、あれはAKB研究生時代のことだから問題ない(乃木坂メンバーとして活動中に同じことをしたらダメだけど)ということでしょうか。

 別に西川さんの再デビューが気に食わないわけでも、乃木坂憎しということでもなく、どうせ戻ってくるのに活動自粛とか引退とかいってファンの前から姿を消すのってどうなんだろう、と思ったのです。西川さんの場合は自分から引退したわけではないですが、結局戻ってきたのは、プロデューサーが同じ秋元さんが務める乃木坂なので、拡大解釈気味ですが自作自演といえなくもない気がします。
 ほかにも、勉強に力を入れたいとか、留学したいとか言って、すぐ別の事務所からデビューしたりする人が結構いますが、見え見えだったりして辟易とします。大人の世界といえばそれでおしまいですが……。

 ただし、一度ミスを犯したり減点されたりした人が再起できないのはおかしいと思います。「そもそも活動を自粛しなければいけなかったのか?」とも思いますし、せっかく再デビューするのだから、当時から待っていたファンもいるはずですし、ぜひがんばってほしいと思います。乃木坂もアイドルグループのワンオブゼムから抜けきれないし、AKBも一時の勢いは失いつつあるようなので、話題になることは歓迎なのかもしれません(自分としては、48グループについての関心事はもはや、こじはるがいつ卒業するのかという点につきます……)。

2012年8月31日金曜日

あきちゃ、さえ、はるごん、まりやんぬを推す――その移籍は左遷じゃない





「左遷」って何だ「左遷」って

 AKB48初の東京ドーム公演で、メンバーのチーム移籍など異動(組閣)が内示されました。推しメンのこじはるがAからBに移るというのもちょっと驚きでしたが、それ以上にあきちゃのJKT移籍(兼任ではなく移籍。仲川遥香と)、さえのSNH移籍(同じく。鈴木まりやと)にはかなり驚かされました。彼女たちのブログを見ると「自分で決めた」などとまことしやかに書かれていますが、本当のところは分かりません。

 それよりも、本件についてここで書きたいのは、移籍を「左遷」と表現することに対して違和感を覚えたことです。「笑えんのかな僕達は」ということ。

 そういう言い方をしたほうがネタとして面白いのは分かります。芸能界の住人ならネタにされてナンボでしょうから、「頑張ってきて」というエールばかりでなく、「左遷されてやんのw」という揶揄もあっていいでしょう。しかし、私がそう感じた理由は、「左遷」という言葉を使っている人の中に、「東京しか認めない」という狭量な考え方があるのではないかと思ったことです。そして、そこには「東京にいれば大丈夫」という根拠のない安心感が見て取れる気がして、とても危うく感じるのです。

 アジアでは日本の芸能界は注目されていますし、日本の芸能界は東京中心であることは間違いありません。ただ忘れてはいけないのは、もはや「アジア=日本」ではないし、一昔前ほどには、日本や東京に対する求心力はアジア各国においてなくなりつつあるということです。それは芸能界に限らず、です。

 現状において、東京の芸能界から上海やジャカルタに行くことは、ギャラや待遇の面でもランクが落ちてしまうのは間違いないでしょう。いくら中国が景気がいいとはいえ、東京での活動ほどは収入は得られないと思います。その意味において「左遷」という表現は間違っていない。
 ただし日本の、東京の経済力や影響力がこれからも続くとは限りません。
 その国の芸能界の規模や経済力はおそらく、国全体のそれと比例しているのではないでしょうか。だとするならば、経済規模が縮小している日本の芸能界、東京の影響力は小さくなってきているし、これから大きくなるとは考えにくい。

もし機会が与えられたとして、お前はジャカルタで勝負できんのか

 本件についてネットでわいわい騒いでいる僕たちにとって、日本は物心ついたときから豊かな国でした。74年生まれの僕はバブルを知りませんが、ちょっと上の世代はそういう時期を知っていてます。下の世代はバブルは知らないとはいえ、食う心配なんてしなくていい、まったり豊か(贅沢はできないけど)みたいな環境で生まれ育ってきたと思います。


 しかし状況は変わりました。失われたウン十年という言葉を出すまでもなく、今の日本は過去の貯金で何とか食えている状況といっていい。一人当たりGDPはもう数年前にシンガポールにも抜かれています。ここ数年、韓国人はもう日本なんて見てないし、中国人だって日本よりアメリカか母国を選ぶようになっています。日本しか知らない自分たちには思いもつかないほど、日本や東京のプレゼンスは下がっています。

 そんな中で、大学進学と言えば東大とか六大学、就職といえばはJTBだ邦銀だというドメスティックな視点しかない人たちが、JKTやSNHへの移籍を「左遷w」と笑っているのだとしたら、笑止千万、片腹痛し。余計な世話であることは承知していますが、笑えません。

 ジャカルタや上海は、確かに現時点では東京より「下」なのかもしれません。しかし「上」になっていく大きな可能性があります。「上」にならずとも、相当プレゼンスを高める可能性を秘めています。そもそもインドネシアの人口がどれくらいいるのか、経済規模がどれくらいなのかを知った上での「左遷」発言なのかということも言いたい。

 ジャカルタや上海に行っても食っていける、勝負できる人間でない限り、「ワロタ」は単なるごまかしです。中には「自分だったら行かないわー」というコメントを残している人もいましたが、全然笑えないんです、そういうの。

 ネタにしてる余裕は、日本にも東京にもない。そういう緊張感・危機感が必要です。

海外移籍する4人を推します

 理由や本心はどうあれ、「左遷」と言われても仕方がない異動を受け入れた4人を、僕はこれから推したいと思います。やっぱり言葉の通じない国に行って、フロンティアとして開拓する役って大変だと思うからです。

 彼女たちは、AKBではトップになれなくても日本の芸能界で残れるかもしれません。名刺に「元AKB48」って書くこともできるし。4人とも、とは言わないまでも、あきちゃとさえは選抜でも17位と11位に入っていますから、何とかなるかもしれません。
 ただ彼女たちは、それではダメだということが分かっている。そんなのでは食えて数年だろうし、大きなことはできない。自分を成長させることはできない。それが分かっているのです。自分が芸能界に残るには48グループに残ったほうがいいと判断し、そのためには外国に行くしかなかった……。そういう消極的な理由が本当のところなのかもしれません。

 それでも、とにかく彼女たちは厳しい道を受け入れて、自分にできることをしようとしている。
 これは48グループにとっても大きな転換点になるはずです。「元AKB」として、数年を楽しくアイドルとして過ごすラクな道を選ばなかった彼女たちは、その重責を知っていると思います。そんな彼女たちは、きっと大きな成果をあげてくれるはずです。


 さしこがHKT兼任になった時、僕は、彼女にとってもHKTにとっても意義のある、前向きなことと感じました。むしろ、なぜ皆が「左遷」という意味が皆目分かりませんでした。地域の時代といわれている中で、これまでと同様に東京一極集中でのみビジネスを続けるのではなく、地域・地方において新たな挑戦をすること。そこになぜ後ろ向きな要素があるのでしょうか? これまで難しかったことに挑戦するのは、既にポジションを確立した者の責務でもあります。
 その上で、今回の海外“移籍”は、さしこのHKT兼任というドメスティックな人事以上に前向きで、かつ大きな可能性を秘めた戦略であると思います。なかなか浸透してこないJKTやSNHのテコ入れにつながるはずです。


 能力があって努力できる人は、左遷を栄転という評価に変えられると思います。それを信じられないのは、7人しか観客がいなかったAKBがドームに連日5万人弱を呼べる日がくるのを信じられないのと同じことだと思います。



 ということで、これから推しメンは、AKBがこじはる、NMBはさや姉、HKTはさくら、JKTがあきちゃとはるごん、SNHがさえとまりやんぬ、ということで一つよろしくお願いします。 



劇場版『1830m』
Disc-2のM-7
アボガドじゃね~し…」
渡辺麻友、指原莉乃)が好きです。