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2023年12月3日日曜日

Netflix「サンクチュアリ‐聖域-」、面白くて一気見。ネットフリックス礼賛してていいのか……

サンクチュアリ -聖域-
© 2023 NETFLIX

Netflixで春に配信開始された角界(相撲界)を舞台にしたドラマシリーズ「サンクチュアリ-聖域‐」を少し前に観たときの感想です。なお8話ありますが面白くて一気見しました。

2022年5月5日木曜日

2022GWに映画館で見た3作「カモン カモン」「ベルファスト」「ドクター・ストレンジ/マルチバース・オブ・マッドネス」

© 2022 MARVEL


ゴールデンウイークは毎年、映画館でたくさん映画を観ることにしていて、2022年は3本観賞したので、その感想メモ。

「カモン カモン」 子供を一人の人間として扱うなら

GW1本目は「カモン カモン」。「JOKER」でアカデミー受賞したホアキン・フェニックス主演。NYで一人暮らし、ラジオ番組の制作をしており、子供たちに未来について聞くインタビューをしている主人公。ロスに住む妹が、夫の看病で付き添いをしなければならず、その間、妹の子供(甥、9歳)を預かることになる。独身子無しの主人公は、好奇心が旺盛な甥に振り回されるが少しづつ距離が近づいていく。

全編モノクロ。子無しのおじさんが、初めてママのもとを離れることになる、好奇心旺盛でちょっと変わった9歳の少年の相手をすれば当然、疲れるはず。劇中、男の子のママ(主人公の妹)も主人公に向かって、「自分も疲れる、嫌になることがある」というようなことを吐露していたが、それも当然だろう。理不尽で時に理性的な(と大人が思う)判断ができない。子供はそういうものだと分かってはいても、イライラとするが、その過程で気づかされることも少なくない。

ただ、何か重要な判断をするときに、子供の意見を聞くのはともかく一票投じさせるのはどうかとも思う。もし投じさせるなら、その結果を受け止める覚悟が大人には必要だろう。「どうしたい?」と聞くなら、子供が「こうしたい」と言ったことを実現させてやること。する気がないのに、大人の都合のいい答えを期待して聞いて、違ったら「それはできない」というなら、聞かなければいい。子供も一人の人間として扱うということで、尊いことではあるが、おためごかしとも言える。

また子育てにせよ対人関係にせよ、国や文化、慣習によってそれぞれ異なる。現代のアメリカでは、こういう形もあるのね、という程度にとどめればよい。アメリカの常識が世界の常識でもなんでもない。

「ベルファスト」 生まれた土地を離れること

GW2本目は続けてモノクロの「ベルファスト」。監督ケネス・ブラナーの半自伝的作品とのこと。北アイルランドのベルファストが舞台。宗教的な対立で暴動が続く街を離れて英領の新天地に移住しようと家族に提案する父と、生まれて以来住んでいる地元を離れたくない母は対立し、家庭不和に。

「生まれた土地でずっと住んでいるから」という理由でその地を離れたくない気持ちは、これまた尊い気がするし、そういう思いが地域社会・ふるさとというものを成り立たせているのだろう。その反面、センチメンタルな、感傷的な思い込みであり、変化を嫌う、回避的な行動でもあるとも言えそう。

離れた後にどういう暮らしをするのか、どう生きるのかによって、離れることの意味、成否の評価は変わりそう。

「ドクター・ストレンジ/マルチバース・オブ・マッドネス」 マルチバースはなんでもアリにする禁じ手では

GW3本目は「ドクター・ストレンジ/マルチバース・オブ・マッドネス」。 

ドクターストレンジとしては2作目だが、スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホームの続き。スパイダーマンで別のユニバースにつながってしまった世界の話。途中ホラー感あるのは監督がサム・ライミだから?

何を書いてもネタバレになりそうだけど、とにかくマルチバースで並行世界の存在を認めてしまったら、全部アリになってしまう(特にスパイダーマンは分かりやすかった)ので抵抗感を覚える。

例によってクレジット後にも映像があって、当然ながら次作へのつながりが示唆される。広がりまくったMCU、今は次のステージに移行しつつある時期だと思うので(前のステージはアイアンマン中心のアベンジャーズ期)、次はどういう感じになっていくのか、気にはなるので観続けるとは思うが……。


映画館ではなく配信で、「マイノリティ・リポート」「ザ・スーサイド・スクワッド “極”悪党、集結」「エージェント・マロリー」を観た。疲れててスカッとするのが観たい気分のよう。

2017年8月27日日曜日

実写の名作を20年以上後にアニメでリメークする意味があった  『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』

(C)2017「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」製作委員会

1993年8月26日。大学2年生だった。長い夏休みの最中で、サークル活動とバイトに精を出しながら、英語の勉強と称してたくさん映画を見ていた。そのほとんどはレンタルビデオ(Blu-rayでもDVDでもなくVHS)だったけれど、とにかくコンテンツにたくさん触れて吸収していた。

その過程でそう思うようになったのか、自分も映像が作ってみたいと思うようにもなった。その数年後の就職活動では、新聞社と同時にテレビ局も受けた。

1993年8月26日。今から24年前、フジテレビの『if もしも』という枠で、ドラマ『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』が放映された。もちろん自分も見た。そして気に入り、忘れられない作品になった。

2015年7月17日金曜日

映画「マッドマックス 怒りのデス・ロード」はDVDで観るべきじゃない


「猿の惑星」でチャールトン・ヘストンが務めた主人公のテイラー博士は最後、コーネリアスたちのもとと離れるが、一人ではなかった。ノバという女性を連れて馬で去る。異性の2人が一緒になることは、子どもがつくれるという意味で未来を感じさせるものだった。しかし最近観た映画で主人公は、一人で去って行った。


2014年8月22日金曜日

ゾンビが走るという発想/bi●chを好きになってしまったら――最近観たビデオ「ドーン・オブ・ザ・デッド」「(500)日のサマー」

(C) 2004 Strike Entertainment Inc.

TVシリーズ「THE WALKING DEAD」もシーズン4まですべて観ているゾンビ映画好きなのですが、まだ観てない作品は多く、映画「ドーン・オブ・ザ・デッド」をようやく観た。

本作は1978年の「ゾンビ」のリメークだからか、リアリティに欠けるところが多い、ツッコミどころの多いB級感たっぷりな映画だった「そもそもリアリティって何だよ」という指摘はさておき。

2014年8月19日火曜日

思春期からの距離を測る――「思い出のマーニー」を観て

© GNDHDDTK

「ジブリっぽい」という言葉の定義をたとえば「ラピュタやナウシカ、千と千尋、ポニョなどのファンタジックでアドベンチャー感のある作品」とするとしたら、本作は「ジブリっぽく」はない。だから、「ジブリっぽい」ものを期待していって「裏切られた」という人が多そうな作品だった。うん、これは評価が分かれるだろうなと思った。

2014年7月25日金曜日

言葉の通じない国で2年収監されたら……壮絶すぎる実話の映画化「マルティニークからの祈り」を観て

© 2013 CJ E&M Corporation, All Rights Reserved.

コロンブスが「世界で最も美しい場所」と呼んだ場所を知っているだろうか。

ベネズエラ沖のカリブ海に浮かぶ小島・マルティニーク島だ。

南米のギアナと同じフランスの海外県で、広さは1100平方km程度。ちょうど香港くらいの大きさで(日本で一番小さいのが1877平方kmの香川県)、人口は40万人程度。小泉八雲やゴーギャンも滞在したことがあるという。観光局のウェブサイトをみると、自然が豊かでダイビングが楽しめ、ラムのおいしいリゾート地であることが分かる。

ある韓国人女性が、マルティニークの刑務所で1年を過ごし、その後9カ月も仮釈放という名の軟禁生活を余儀なくされた。この島に移送される前のパリでの3カ月を含めて「756日間」も苦しい生活を強いられたーーそんな実話をもとにした映画「マルティニークからの祈り」を試写で観た。




あらすじはこう。自動車整備工場を夫婦で営み、夫ジョンベ(コ・ス)、一人娘ヘリン(カン・ジウ)と3人で慎ましやかに暮らしていたジョンヨン(チョン・ドヨン)だが、夫が保証人になっていた知人が自殺したことがきっかけで借金を背負うはめになり、家を追い出される。生活に困窮した彼女はやむなく、金の原石をフランスに運ぶ裏仕事を引き受ける。だが到着した空港で、それが実は麻薬であることが知らされる。麻薬に身に覚えはないがフランス語は話せず、また大使館も当てにならないなかで、先の見えない絶望的な日々をおくる……というものだ。


主演は、カンヌで主演女優賞を穫った(シークレット・サンシャイン)チョン・ドヨンで、さすがの演技力。子役のカン・ジウの演技もいい。「なぜだか理由は分からないが母親と会えずに寂しがる子ども」という状況を思うだけで涙腺が緩んでしまうが、劇中の

「ママ、あと何回寝たら戻ってくるの? ママの顔、忘れちゃいそうだよ」

というセリフは反則級のヤバさで涙がこらえられなかった。






ちょっとネタばれします。



自分がリアリティのある演出だなと思ったのは、ジョンヨンが最後、仁川空港に降り立ったときのヘリンの反応。「ママ!」と叫びながら走り出してスローモーション……みたいな、どこかの陽気な国ならありそうな演出ではなく、彼女は母の姿を見ても照れたのか、父の後ろに隠れていた。今思えばとりたてて気の利いた演出というわけではないものの、4歳から6歳までの約2年間、母と離れて過ごした女の子なら、ああいう反応をするだろうなぁとしみじみと思わされた。




いい映画だと思うので、”敢えて”気になった点も書いておく。

壮絶な実話がもとになっていることや、チョン・ドヨンの演技などはとてもよかったのだけれど、とても濃い2年間を2時間にまとめたためか、事実の説明を受けたものの悲壮さがあまり伝わってこなかった。いや、伝わってきたのだが、「もっと来いよ!」と思ってしまった。一人で過ごす時間の長さ、その過酷さ、辛さがもっと感じられてもよかった。フランス語はともかく英語が分かれば何とかなったかもしれないのに、英語すらできないおばちゃんがパリで捕まったら、ビビり具合はもう相当だろう。それに、収監された刑務所内の環境は劣悪ではあったが、男性刑務所の内部が描かれた映画やドラマをたくさん観ているからか、「こんなもんやないだろう」と(収監されたこともないのに)思ってしまった。

もしかしたら、「英語すらできないんだからしゃーないやろ」という気持ちがあって、同情できなかったのかもしれない。



でもチョン・ドヨンとカン・ジウの演技が観られたこと、こういう怖い実話があったのだということを知れたこと(あとトマトの唄を聴けたこと)だけでも、観る価値はあると思う。



2014年4月17日木曜日

海外ドラマを観ていて面白いと思った英語表現 smoking gun, girl space friendなど


 昨年から海外ドラマを観まくっていて、面白かった、ためになった表現をgmailのdraftにメモしている。その中に「smoking gun(動かぬ証拠)」というのがあって、これを聞いたとき、「たしかに硝煙の出ている銃を持ってたら犯人と思われて仕方ないよな」と思って感心したのだけれど、この春のフジの新ドラマに「SMOKING GUN〜決定的証拠〜」というのがあって「おっ」と思ったので、ほかにどんな表現をメモしていたのか、振り返り。

2014年1月22日水曜日

映画「恋するミナミ」の女性たちに恋して

© FLY ME TO MINAMI ― 恋するミナミ ―

映画「恋するミナミ」を観た。日中韓3カ国の男女がフツーに出会って恋をする映画で、いいお話、良作なのだけれど、興行的にはあまり注目されなかった。「日本はまだこの”フツー”には至ってないんだな」と思わずにいられなかった。

2013年10月20日日曜日

アメリカの性、世界の性――映画「私が愛した大統領」「31年目の夫婦げんか」を観て

© 2012 Focus Features LLC. All Rights Reserved.

 ビル・マーレイがフランクリン・ルーズベルト大統領(FDR)を演じた映画「私が愛した大統領」をちょっと前に観た。邦題が「私が愛した〜」となっているように(原題は「HYDE PARK ON HUDSON」)、FDRの愛人が登場する。どこまで史実か分からないけれど、かなりダラしなかったということだろう。
 この作品で驚きだったのが、車中の大統領を”手でする”シーンがあるということ。もちろん、そのものずばりではないけれど、車が揺れる描写で何をしているかは分かる。いくら昔のこと、ユーモアが評価されるお国柄といっても、その描写が許されるって何なんだ?と思ってしまった(それで制作がアメリカじゃなくてイギリスだってところがまた……)。日本で首相をこうやって描くことなんてちょっと考えられないのだけど。



 別の日には、メリル・ストリープとトミー・リー・ジョーンズが31年連れ添って倦怠期の夫婦を演じた「31年目の夫婦げんか」を観た。時間的な都合で偶然観たのだけれど、結構いろいろ考えさせられる内容だった。

 話の筋はこう。ダンナは仕事に夢中で、家ではテレビの前に座ってずっとゴルフ番組を観るだけ、プレゼントはアクセサリーではなくて家電、セックスはずっとない。妻は女性扱いしてもらえないことに嫌気がさしており、意を決してカウンセリングに(HOPE SPRINGSという街にあるクリニックへ)行こうと提案する。ダンナは嫌がるのだけれど、結局は行くことになり、少しずつ変わっていく、というもの。

 下品だという感想もあるようだけれど、決してそんなことはないと思う。途中、ダンナが妻を女性扱いしていないこと、セックスしようとしないことをはぐらかすシーンで、館内で笑いが起こったが、妻の気持ちを考えると笑えなかったし、「笑うとこじゃねぇだろ」って思ってしまった。世にはたくさんあんなダンナさんがいて、苦しんでる女性がいるのでしょう……。
 テーマは必ずしも老いと性だけではないですが、なかなか踏み込めない題材によくあそこまで正面から挑んだと思います。名優2人だからこそ成り立ったのかもしれません。



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2013年7月2日火曜日

自分が自分であることの証明――映画「オブリビオン」鑑賞、「風立ちぬ」試写当選

 忘れること、忘れられること。その状態。忘却ーー。

 そんな意味のタイトルの映画「オブリビオン」を鑑賞した。予告編などから大作感がありありと出ていたが、実際は意外とシュッとまとまった作品だった。目新しさはないけれどジワジワ来る感じというのだろうか。これはネットで読んだのだが、トム・クルーズがこの作品を「2回観てほしい」と言ったそうだ。鑑賞した今、その意味が分かる。タイトルからして「記憶」にまつわる話と分かるだろうが、構成や意味をよくよく考えながら観たほうが理解が深まる作品だ。



 あらすじはこう。2077年、スカヴと呼ばれるエイリアンの侵略を受けた人類は、核兵器を使うなどして何とか勝利を収める。だが地球は壊滅状態となり、人類の大半は宇宙へ脱出、土星の衛星・タイタンに移住する。勝利から60年たった今、地球に残るのはトム・クルーズ演じるジャック・ハーパーと通信担当であるヴィクトリア(ヴィカ。アンドレア・ライズボロー)。2人は日夜、地球の水を採ってエネルギーに替え、タイタンに送る採水プラントをスカヴの残党から守るため上空から監視を続けていた。ヴィカは早く残り2週間の滞在期間を終えてタイタンに戻りたいと願っているが、侵略前の地球の記憶が残っているジャックは未練がある。
 ある日ジャックはスカヴの残党に襲われるが、なぜか彼らはジャックを殺そうとしない。その数日後、何かが地球に墜落する。ジャックが命令に背いて偵察に行くと墜落したのは宇宙船だった。そのカプセルの中に、以前からときどきジャックの夢に出てくる女性(オルガ・キュリレンコ)が乗っていた……。
 
 ネットの感想を少し見たら、「面白いけど物足りない」という書き込みが散見されたように思う。そこは同感だ。上にも書いたけれど目新しさがないということと、トム・クルーズ主演で派手なトレイラーを観せられた上で鑑賞しているので、ハードルが高くなっていることが理由だろうか。

 だがよくよく考えれば、「記憶」というものは自分のアイデンティティと深く関わる問題で、本作は実はそら恐ろしい内容だったのではないだろうか。その意味では、エンディングもハッピィといっていいのかどうか、いまだによく分かっていない(その意味でもまた観たほうがいいのだろうけれど)。ジャックやヴィカがもし●●ーなのだとしたら、エンディングの52は49と”同じ”なのだろうか? いや、そもそも”同じ”とは何なのだろうか。同じでなかったら何だというのか。現状の技術ではこうした状況がすぐに生まれるわけではないだろうけれど、自分とは何か、何をもってアイデンティティが形成されているのか、という問題は今にもつながることではないかと思う(ゴーストがダビングできるけれど大量複製すると劣化していくという攻殻機動隊の設定に似たところがあるなと思った)。
 「自分とは何者なのか」「自分が本当に思っている自分(人物)なのか」ということは、いくら自分が考えても分からないし、証明できない。そこで百歩譲って自分が、実は思っている自分ではなかったとする。さて、その時に周りの人はそれを受け入れてくれるのだろうか。その点を不安に思った。

 ネタバレ避けながらだとスッキリ書けないけれど、このSF作品は意外に重要な問題に切り込んでいるといえるのかもしれない。

 あと、モーガン・フリーマンにもうちょっと活躍して欲しかった。オルガ・キュリレンコもアンドレア・ライズボローも共に美しかった。「華麗なるギャツビー」観たかったのだが時間合わず郊外のシネコンで観たのだが、スクリーンが小さかったのでちょっと残念だった。これは大きなスクリーンで観たほうがいい。

* * *

 ところで先日、読売プレミアムで宮崎駿監督の新作映画「風立ちぬ」の試写が当たった(僕じゃないけど)。「オブリビオン」鑑賞前に4分間の映像が流れたが、意外と(?)面白そう。今年の夏は「少年H」もあるし、なんかだノスタルジックな作品が多い印象がする。読売プレミムといえば、AKB48の東京ドームライブもたしかこれで当選したんだった。競争率あんまり高くないのかもしれないな……。

2013年5月28日火曜日

攻殻S.A.C.ファンがARISEを観た感想――少佐じゃないけどしっかり素子だった

 

攻殻機動隊ARISE border:1 Ghost Pain」のプレミア先行上映イベントに行ってきました。自分は別に押井攻殻でも原作でもなく、ただS.A.C.が好きだというファンなだけに、失礼ながらも心配しながら観に行きましたが、満足して帰りました。

以下ちょっとイベント内容のレポートをしてみたいと思います。話のあらすじには触れていないので、よほど「絶対に予備知識を入れたくない」という方以外は、鑑賞前に読まれて楽しみが損なわれることはないかと思います。

2013年5月27日月曜日

「オススメは?」という質問の恐ろしさ

 知人がTwitterで、これからレンタルするDVDの作品名を書いていた。まだ観たことがなかった作品だったので、興味を持った。それと同じ日。ネットで、オススメの本を持ち寄って紹介するイベントの記事を読んだ。まだ読んでいない本も出ていたが、あまり興味を持てなかった。

 前者では興味を持って、後者では持てなかった。その理由が何かといえば、「誰が勧めているか」の違いだ。前者については、その知人は「これから観る」というだけだから厳密には勧めているわけではないが、それでもその知人が「借りてみよう」と思った、それだけ関心を持ったということ。だから自分は「彼が観たいと思っているなら」という前向きな評価をした。一方、後者は、どんな人が勧めているのか分からない。予想外の当たりがあるのかもしれないが、はずれだって多いだろうという思いが勝ったわけだ。

 そもそも映画にしても本にしても、巷間よい作品だと言われているものが自分の好みとは限らない。自分が一目置いている人が勧める作品だからといって、自分のお気に入りになるかどうかは別だ。それでもやはり、誰だか分からない人が勧めているものよりも、一目置いている人、センスがいいと思っている人が勧める作品のほうに食指は動く。特に、過去に好きだった作品が同じだったりすると余計にだ。

 こう考えている人が増えているのかどうかは知らないが、それが自然だとすれば、ソーシャルメディアが広く支持されるのも分かる。「全米が泣いた」作品よりも、「自分と好みの合う友達のAさんが『泣けるよ』っていってた」作品のほうが観てみたいと思うのは自然ではないだろうか。

 大学生のころ、かなりの数の映画を(レンタルビデオで)観ていて、そういう話をすると「オススメは?」と(軽々しく)聞かれることがあるのだが、答えに窮してしまう。なぜなら、自分が好きな作品が相手の好みに合うかどうか分からないからだ。
 相手が「どうせ好みは違うんだから」と分かってくれている人ならいいのだが、軽々しく勧めて相手が観て全然好みと違っていた場合に、「あの人(濱田)はこれを面白いと思っているのか」と、自分がいないところで後々に思われるのも、何となく嫌だ。自分のセンスに絶対的な自信があればいいのだろうけれど、自分はそんなに不遜ではない。
 だから「オススメは?」と聞かれたら、「これまでに好きだった映画は?」と聞きかえして、“その場なりに”真剣に答えるようにしていた(とはいっても、誰にでも威張れるほどたくさん観ているわけでもないのだけれど)。少なくとも好きな作品を聞けば、監督や俳優やジャンルなどが分かるので、「オススメといえるかどうか分からないけど……」と言い訳しつつも、別の作品名を触れやすくはなる。「あの映画なら、監督が◎◎さんだけど、同じ監督の△△は観た? 僕はそっちのほうが好きだけど」とか言える。

 ただこんな心配も、本当に好きな作品であれば、心配はまったくせずに伝えられる。それは「あの作品なら面白いから間違いない」という場合もあるし、「相手の好みと合うかどうか分からないけど、とにかく自分は好きなんだ」という場合もあって、いずれにせよ自信があるからだ。

 怖いのは、「オススメは?」とさりげなく聞きながらこちらのセンスを試そうとしているのではないかという場合だ。自分は、高い評価をしてもらいたいと思う人の前だと、つい張り切って意気込んで結果失敗することが多いので、焦って結局、超無難なことしかいえない。
 逆に、「これをオススメしたい!」「聞いてくれ!」という自信がある作品を観たり読んだりしたときに限って聞かれない。聞かれてもないのに言うのは、気が引ける(ブログでは書くけれど)。


 「オススメの作品は?」と聞かれたいけど、聞かれたくない。
 もし聞くのであれば、それはとても恐ろしい質問だということを踏まえて、そして回答に時間がかかることを覚悟して聞いていただきたい。ゆめゆめ、何も考えずに聞くようなことはしないでいただきたい……。




(笑)



といいながら今ならオススメの漫画はこれでしょうかね

2013年5月25日土曜日

映画ポスターにおける顔写真とクレジット表記の位置問題


 映画「クロユリ団地」の広告が夕刊に出ていて思い出したのですが、映画のポスターでよく気になることがあります。それはキャストのクレジット順と顔写真の並びがまったく逆になっていたりするのがどうにかならないか、ということです。このポスターでいえば、顔写真は左から成宮君、あっちゃんの順ですが、タイトル下のクレジットは左右がテレコになっています。

 ただこのポスターくらいなら、さほど問題ではありません。並んでいるのが異性だし、写真と文字が若干離れているのからです。もっと紛らわしいポスターがたくさんあります。複数のメインキャストの名前が並んでいるときに、見事に順番が逆になっていたり、名前と顔が一致しない俳優が複数いて判断に困ったり……。左から掲載されている名前のテキストとアップの顔写真の位置関係がかなり近いのに、見事にバラバラの場合もあって(顔写真の近くに別の人の名前があるとか)、「これ作った人も気づいてるだろうけどなぁ」と思ったことは一度や二度ではありません。

 クレジットは順番が契約で決められているでしょうし、レイアウトを「紛らわしくないもの」にしようと思うと、デザインの幅がかなり制限されてしまうので、この問題はなかなか解決が難しそうです。

 皆さんも似たような経験ないでしょうか? 紛らわしいと感じたことはないでしょうか?

2013年5月13日月曜日

萎えるアニメ 萎えないドラマ――OP&ED考

 

 NHKアニメ「はなかっぱ」のOPがスパガ、EDがDream5とそれぞれ別のアイドルグループの曲になっている。特にEDはアイドルたちと着ぐるみのはなかっぱ、ももかっぱちゃんが一緒に踊っていてちょっと驚いた。キャラの着ぐるみは他のアニメにもあるが、主題歌を歌うアイドル、歌手と一緒に登場しているのは初めて見た。多分ほかにも同様の事例はあるのだろうが。この「はなかっぱ」の選曲の是非というより、アニメのOPやEDの曲選定はいつも考えさせられる、ということについて書いてみたい。

 まずタイアップどうかはともかく一番大事なのは、世界観とあっているかどうかだ。一時期、人気アーティストの楽曲をただ主題歌にしただけと思えるケースが結構あった。また人気が若干落ち目になったアーティストがどんな理由か知らないが()採用されることもあった。そういうのが一番萎える。

 人気アーティストの楽曲を使うことは、アニメファン、原作ファン以外の、そのアーティストのファンも取り込むことが期待できるメリットはある。

 しかし、それは邪道だろう。

 主題歌を選ぶのは監督や演出ではないのだろうから、押し付けられた制作陣とて忸怩たる思いはあろう。だが大人の事情で選ぶ余地がなかったとしても、視聴者全員が忖度してくれる訳ではない。そんな義務はない。ファンにしてみれば、OPやED含めた世界観を楽しみ、浸りたい。その統一感やいい意味での裏切りを期待しているし、値踏みしている。

 だからアニメの楽曲は世界観に合わせたオリジナル制作が一番いいように思う。ただ既存の曲にピッタリのものがあれば使ってもいいだろうし、アーティストに発注して作ってもらってもいい。


 最近のアニメはあまり観ていないが、それでもジョジョはOP、EDともによかった(一期、二期とも。神風動画の映像がさらに引き立ててた)。「宇宙兄弟」も楽曲やアーティストの選択にセンスがある気がする(進撃の巨人は悪くないけど、騒ぎすぎな気も)。

 OPやEDも含めて作品と考えるか、その部分をPRと考えるか、ということだろうか。


 と、ここまで考えて思ったのは、ドラマはどうだろうかということ。ドラマはタイアップじゃない楽曲はなかなか考えづらいから、よくよく考えるとドラマの筋や世界観とあってない楽曲ってかなり多いんじゃないだろうか。

 でも「ドラマはそんなもんだ」と思っているからか、楽曲の良し悪しは気にするものの、ドラマとの親和性、統一感みたいなものはあまり気にならない。これはなぜだろうか……。もしかして自分だけだろうか。よく考えてみれば、海外ドラマなんてテーマ曲は無いか、ジングルの長いやつみたいな、ちょっとしたインストだけってことも結構ある。


 楽曲は覚えてるけど本編はあまり…という作品もある(アニメ、ドラマとも)。本編が後々まで記憶されるほどの良作であれば、楽曲だって合わせて記憶されるのだろうが、ファンとしてはやはり、「なるほど」と想えない選曲はしてほしくないものだ。

2013年2月25日月曜日

将来はアニメ・映画をつくるかプログラマーになりたい田舎の12歳男児(彼女ナシ)だったーー映画「ムーンライズ・キングダム」を観て


消しゴムに赤いペンで好きな子の名前を書いた


 小学6年生の時、卒論を書かされた。
 
 担任の女性教師の発案だったので自分のクラスだけで、自分はたしか徳川家康について調べて書いたと記憶している。表紙には葵の御紋を描き、その影響で卒業アルバムの寄せ書きに「天下泰平」と書いた(いやはや遠い目、薄目でしか見られない思い出だ……)。当時好きだった子がいて、時々だったか頻繁にだったか覚えていないが、男女数人で一緒に下校していた。こう書くとリア充ぽいが、別にそんなことはなくて、特に付き合ったりデートしたりしていたわけでは決してない。消しゴムにこっそりその子の苗字を赤字で書いて、バレずに最後まで使い切ったら思いが実るというおまじないをやってた、ウブな男児だった。その子に成人式の時に再会して「会うんじゃなかった」というのも今になってみればいい思い出なのだけれど、とにかく当時は普通の田舎の男の子だった。
 
 小学6年生は、田舎の子どもが将来について考える最初のタイミングだったと思う。5年くらいから社会科の授業で歴史や政治についてちょっとかじり、社会の仕組みについて触れるようになった。もうすぐ入学するはずの中学では、定期試験で順位がつけられることになる。高校入試も数年後に控えている。小学高学年の頃のテストの結果で、何となく地元の進学校に進むであろう友達も分かった。ずっと一緒だった友達とももうすぐ別れ、学校はバラバラになってしまう。僕が行った中学校は複数の小学校から生徒が集まるところだったこともあって、中学進学を前に「いよいよ人生が動き出すんだ」という予感が何となくあったように思う(そんな大げさな表現は頭のなかにはなかったけれど)。

 将来なりたいものもいくつかあった。昭和49年の早生まれである自分が、ちょうど6年生の時に「アリオン」が公開された。幼年時代に観た「ドラえもん のび太の恐竜」などを除いて、初めて 「アニメ」というものを意識してみた作品だったと思う。「ウイングマン」もアニメ化された。それらの影響か、アニメをつくる仕事に憧れていた。絵が得意でイラストを描くクラブだかに入っていて、アリオンの絵を描いた記憶もある。また映画「グーニーズ」も人気で、「映画をつくりたい」と漠然と考えたりもしたし、PC-8800シリーズやMSXやファミコンも人気で(僕は持っていなかったけど)、プログラマーにも憧れていた。


 大人になると、「子どもの頃は悩みなんてなかったなぁ」と思ってしまう。だけど『Papa told me』で知世ちゃんも言ってたと思うが、そんなことは決してない。子どもは子どもなりに真剣に悩み、真剣にもがいている。大人からみれば大したことないかもしれないが、子どもは子どもなりに真剣だ。自分の小学生時代を思い起こせば、大した悩みなんかなかったように思うが、当時は真剣にいろいろ悩んでいたのだろうと思う。

逃げる2人が12歳である理由


 映画「ムーンライズ・キングダム」の主人公は12歳の男女だ。2人が運命的な出会いをし、二人で逃避行をするハートウォーミングなコメディ・ドラマだ。いい映画だと思うので、是非映画館で観てほしい。

 少年少女の逃避行といえば「小さな恋のメロディ」 だが、これも主人公たちは11歳くらいだろう。この時期が選ばれる理由はいくつかあるだろうが、11ー12歳くらいの女の子が持つある種独特の魅力もその一つではないかと思う。

 断っておくが、僕はこれくらいの世代の女の子に性的な意味での関心はない。
 しかし第二次性徴が始まる頃、ティーンになる直前くらいの女の子が持つ魅力というものはあると思う。そのタイミングでしかない、はかない美の魅力があり、被写体として取り上げたくなるのはよく分かる。例えば僕は奥菜恵さんが好きだけれど、彼女の代表作はやはり「if もしも〜打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」だと思う。岩井俊二監督が演出したこのTVドラマ当時、彼女は11歳くらいのはずだ。

 こうした世代の、大人への階段を登り始めたもののの独り立ちはできない子どもたちが、大人から与えられた世界に息苦しさを感じて逃げ出したくなるのは、ロジックとしても理解できる。もう数年たってしまうと、今度はもう大人といってもおかしくないので、生々しくなってしまうということも、この世代が選ばれる理由としてあるだろう。

  本作のヒロイン、スージー(カーラ・ビショップ)は、例えばトレイシー・ハイドとくらべて大人っぽすぎる感じはするし、「ちょっとHだなぁ」と思えるシーンもなくはないのだが、彼女のコケティッシュな魅力がそれをギリギリカバーして、観られるものにしているようにも感じた。

 こうやって書いたものの、何も彼女の魅力だけがこの作品の良さだということを言いたいわけではない。彼女が逃避行の相手に選んだ男の子は、冴えないメガネのいじめられっ子だった。本作を観た世の多くの男性は、彼に自分を重ね合わせて「12歳のときにあんな出会いがあったらなぁ」と思うのではないだろうか(主人公は冴えない感じとはいっても、スカウトだからキャンピングの能力が一応ある。抜けたところもあるけれど全然頼りにならないわけでもない)。

 ただ子どもの駆け落ちがうまくいくことなんてほとんどなく、本作でも2人も逃げ出せない。リアリティのある映画やドラマで若い2人が駆け落ちしようとすると、「ワクワクして逃げ出すけど、そう遠くないうちに連れ戻されるか、どちらかが逃避行に疲れて戻りたくなってしまうんだろう」という醒めた見方をしてしまう。

 本作でも2人は最終的に逃避行を成功させられないが、恋まで終わる訳ではない。どういう結末になるかは書かないが、ふつうに考えればハッピーエンドといえる終わり方だ。

 だが僕は、果たして2人の将来が幸せに満ちあふれているのだろうか?と思ってしまった。2人が逃げ出したのは、お互い惹かれ合って一緒にいたいと思ったからで、そのためには逃げるしかなかったのだ。だがむしろ「今の場所から逃げ出したい」という理由も大きかったはずだ。もしかしたら人生を変えるきっかけを、相手に、出会いに求めていただけではないだろうか。それに、おそらく数年後には、周りに気兼ねなく2人で関係を築くことができるはずだが、その間に2人は大人になっていく。登場人物の限られた、島が舞台の本作ではライバルなど出現しないかもしれないが、それでも考えは変わっていくはずだ。いろいろ経験するはずだ。その頃まで2人が、確認し合った気持ちを持ち続けられるのだろうか……。

 本作の場合は、”箱庭の中での出来事”(作り話)であることをつよく演出で打ち出している。だから、そんなことを問うのは無粋・ナンセンスなのかもしれない。そんなこと考えずにただヒタればいいのかもしれない。深夜アニメには主人公が学生の作品が多いが、それらを楽しむのと同じように、「自分の学生時代もこうだったら良かったなぁ」とちょっと切なくなりながらも、まぁとにかく楽しめばいい。

 それでも、”消耗品である”男の立場からすれば、好きな女の子とずっとその関係が続けられるのか、彼女を幸せにできるのか、2人で幸せになれるのかと不安にならずにはいられない(「男が女を守る」なんて時代錯誤、女性蔑視だといわれるかもしれないが)。主人公に自分を重ねればなおさらだ。

 大人になるにつれ、昔は持っていたはずの考えや、感じていたもの、気持ちは次第に忘れてしまう。人間は忘れるからこそ生きていけるともいうが、そうはいっても忘れたくないものもある。だが形のない思い出や気持ちは、いつまでも同じというわけにはいかない。相手があることなら、なおさら関係が「変わってしまう」リスクは小さくない。

 ハッピーエンドを迎えた彼らの将来を不安に思うことが、自分が大人になってしまった理由だろうかと思うと、ちょっと寂しい気がするが、本作の2人は、たとえ出会った時と同じ気持ちを持ち続けられないことが分かっていても、この先何が起きようとも、出会ったことを、そして2人で逃げようとしたことを後悔しないだろう。そうあってほしい。

「自分が12歳の頃にあんな出会いがあったら……」と思わずにいられない、切ない作品だった。

 

2012年11月22日木曜日

なぜ「嫌い・ダメ」なのか――「悪の教典」はたしかに気持ち悪い映画だけど


© 2012「悪の教典」製作委員会

“つまり今回の大島号泣の一件も、仕込みではあったが、関係者のほとんどが何も知らされていなかったため、結果的に大混乱を招いてしまったということなのだろう。”
サイゾーウーマンでこう解説されている、「『悪の教典』AKB48特別上映会」での大島優子号泣、中座事件。このニュースが流れる前に本作を観ていた私としては、「話題作りかもしれないなぁ」とも、「本当に気持ち悪くなって中座したのが本当かもしれないなぁ」とも思った。
 
 本作は、生徒にも同僚にもウケのいい高校の英語教師・蓮見が実はサイコパスで、自分の悪事を隠すために、学園祭の準備で泊まり込んでいたクラスの生徒たちを朝までに全員殺そうとする話だ。海猿のさわやかマッチョイメージを覆そうと伊藤英明君ががんばって主演している。
 私は原作は読んでいないのだが、とても気持ち悪い、後味のよくない映画だった。

 そりゃそうだ。高校生が次々にショットガンで殺されていくんだから、気持ちがいいはずがない。

 この中座事件の日、大島優子はこういうコメントを残している。
「わたしはこの映画が嫌いです。命が簡単に奪われていくたびに、涙が止まりませんでした。映画なんだからという方もいるかもしれませんが、わたしはダメでした。ごめんなさい」
こんなふうに「“私は”ダメ」と言われてしまうと、「そんなのおかしい」と言えなくなるが、ただエンターテインメントに関わる身であることを考えれば、これをマジで言ってるのなら問題ありだろう。(当日、配給の東宝が「真実は映画を見て判断してほしい」とコメントしているあたり、話題作りの色合いも濃い気はするのだが、その真偽は分からないのでこれ以上は触れない)。
 生徒が次々に殺されていく様を観ていて気持ちいいはずはない。だが、そもそも人が死ぬ映画なんていっぱいある。現実に人は死んでいる。殺されている。ではなぜ“この映画はダメ”ということになるのだろうか。

 現代の日本が舞台で、若い高校生が殺されるからなのか。
 じゃあ日本人じゃなければどうなんだろう? 高校生じゃなければ? さらに言えば、殺されるのが人間じゃない生物ならどうなんだろう?

 そういうことではないのだろうか。

 嫌なことから目を背ける権利も、観ない権利もある。
 でも、たとえそれがフィクションであっても「観たくない」なんて、女優が言ってていいのだろうか。フィクションの力、演技の力、映画の力というものを信じてないのだろうか。女優としてのプライド、矜持は上映終了まで自身を席にとどめるほどではなかったのだろうか。
 メンタルからイヤだと言うのは簡単。プレイヤーなんだから、ロジカルに、クリティカルに考えて発言してほしいと思う。

 それと、最後の「ごめんなさい」は制作陣に対してなのだろうか。「なんで謝るの?」「何に対して謝るの?」という謝罪をテレビでよく聞くので、ちょっと疑問に思った。


 私の感想としては、結構面白かったと思う。何度も書くように、気持ちのいいものではないが、あやしげな、不吉な雰囲気はよく出ている。気味が悪い。最後の校内の殺戮は三池節というのか何なのか、イケイケの軽い感じはしたが、勢いもあいまってカタルシスを覚えてしまう人もいるだろうと思う。倒れた宇宙飛行士の人形を戻すところとか、細部の演出にこだわりは見られたのだけれど、もっと蓮見の人物像や、形成された過程、現在の心の中の風景を、音楽とあやしげな画による雰囲気だけではなく、演出・描写で観たかった気はした(そもそもサイコパスの心の中をロジカルに理解できるのか?とも思うが)。あと伊藤君は頑張っていたけれど、もう一つ何か足りなかった気がする。それが何か、演技の善し悪しをうまく説明できないので分析できないけれど。

 続編は観てみたいと思う。

 


その他最近、試写で観た映画。

「ライフ・オブ・パイ トラと漂流した227日」
 インドからアメリカへの航海中、大嵐で投げ出され、1匹のトラと救命艇で生き延びた男の話。トラはほとんどCGというからすごい。話のあらすじがトンデモな感じだが、そのトンデモな設定の勝利でもある。原作がどうなのかは知らないが、主人公が不思議な体験をして生き延びる話だからか、神や宗教についてのセリフや描写が多いし、海での様子がとてもスピリチュアルに描かれていて、それが強過ぎる気がする。もうちょっとサバイバルのための工夫を丁寧に描いても良かったのではないか。3Dの必要性はない気がした。ただドキドキハラハラしながら、楽しんで観ることはできます。「観るんじゃなかった」とは思わないでしょう。

パイの物語(上) (竹書房文庫)  パイの物語(下) (竹書房文庫)

「ねらわれた学園」
 ご存じ眉村卓の名作ジュブナイル[『ねらわれた学園 』 を現代に置き換えたアニメ映画。まゆゆが声優をつとめたことや主題歌をsupercellが作ったことなどで話題になりました。現在、公開中です。原作は結構昔のものなので、現代に置き換えるにあたって携帯電話を使い、コミュニケーションのあり方について一石を投じている。その点について、もっと考えさせる描き方をしてほしかった。絵づくりの面では、逆光やレンズフレアが過剰すぎる気がした。もちろん狙ってやっているのだろうけど、なぜだろう。新海誠さんの作品が好きな方はいいのかもしれないと思った。

 

「塀の中のジュリアス・シーザー」
 ベルリン国際映画祭で金熊賞を受賞したタヴィアーニ兄弟が監督・脚本を務め、アカデミー賞外国語映画賞・イタリア代表作品に決定した本作。ローマ郊外のレビッビア刑務所で、受刑者たちが、一般人に見せるために演劇「ジュリアス・シーザー」を上演することになり、稽古が進むうち、囚人たちは次第に役と同化。刑務所がローマ帝国のようになっていく。日本でありがちな、素人が頑張って一つのことに打ち込んで、涙あり笑いありで苦難を乗り越えて最後は団結して終わり、みたいなコメディじゃない点は評価できるが、ちょっとおカタすぎる。エンターテインメントというよりアート、いやエクスペリメンタル、実験的な映画という感じ。シェイクスピアはおさえとかないといけないなと思わされた。








2012年10月20日土曜日

島村ジョーもリーダー、高橋みなみもリーダー――「009 RE:CYBORG」を観て

© 2012 「009 RE:CYBORG」製作委員会


JAPAN as a LEADER of ...

  「サイボーグ009」の連載が始まったのは1964年(昭和39)。その後、連載は85年まで断続的に続いた。2012年現在、早瀬マサトさんと石森プロによる完結編が描かれているが、石ノ森氏本人による009は80年代で止まっている。「未完の大作」と呼ばれる所以だ。石ノ森氏が連載するにあたり何を考えていたのか、そのあたりの分析は雑誌『Pen』の特集「サイボーグ009完全読本」に任せるが、こういう疑問を持つ人はいないだろうか。


 なぜ、世界各国から集められた9人のサイボーグ戦士のリーダーが日本出身なのか――。



 身も蓋もない言い方をすれば、「日本の漫画なんだから」ということになるだろう。だが果たしてそうした解釈しかできないものだろうか?

 2012年、サイボーグ009を原作にした映画が新たに公開される。「攻殻機動隊S.A.C.」シリーズの神山健治監督が脚本も手がけた「009 RE:CYBORG」だ。10月27日全国公開の本作を、私は先日、試写で観た。ちょっと難しく分かりづらいところはあったが、面白かったし、好きな作品と言える。公開前でネタバレはしたくないので、ほんの少しだけ、感じたことを書いてみる。

原作の漫画が連載されていた時期、日本は高度経済成長を遂げた。一方、本作の舞台は2013年。社会は、世界は、まったく変わった。既にソ連は崩壊し、冷戦は終わった。中国をはじめとした新興国が台頭している。EUが生まれ、その中でも経済格差が顕在化するほどの時間がたった。世界における日本のポジションも大きく変わっている。どう変わったかは言うまでもないだろう。

 本作の舞台設定は、キャラの意匠変更とともに大きなチャレンジだったはずだ。人間のつくった「国家」から独立した存在として、人間(人類)のために戦う正義の集団としてのゼロゼロナンバーサイボーグ。主題歌「誰がために」ではないが、誰の為に、何の為に、正義をなすのか――。ある時代のある社会で「正義」と言われる言動が、別の時代、別の社会では正義ではないことは往々にしてある。20世紀に追い求められた正義と、21世紀の今のそれは必ずしも同じではない。今この時代に“9人の戦鬼”がとるべき行動とは何か、しっかり設定しなおす必要がある。

 正義を求める過程には、大きな犠牲とリスクが求められる。そして、それに負けない強い心、強い組織が必要だ。反対や対立、邪魔といった障害を超え、一人では成しえないことを成すための強い組織が。ここで冒頭の疑問に立ち返る。現代において、世界の為に戦う組織のリーダーに、日本人が立つことの意味とは何か。

 本作で神山監督は、「なぜ009が、日本の島村ジョーが、世界各国から集まったサイボーグ戦士のリーダーなのか」について説明している。

 9人の出身国・地域(ロシア、アメリカ、フランス、ドイツ、アメリカ、中国、イギリス、アフリカ、日本)をみると、「なぜアメリカじゃいけないのか」という疑問は生じる。9人のうち2人はアメリカ大陸出身。経済的にもアメリカがリーダーシップをとってしかるべき、と考えることはできる。
 だが逆に、アメリカがリーダーになった場合に生じる問題点も少なからずあるはずだ。それは今の社会を見れば分かるだろう。だからこそ、日本なりのリーダー像があり得る。

 そう思いながら現実を見ると、暗澹たる気持ちになる。日本の外交、世界におけるポジショニング。決して、理想的な姿とは言えない。今の日本が、正義を追い求める上で世界のリーダーなれるかと問われれば、現時点では(残念ながら)消極的な回答しかできそうにない。

 しかし、そもそもリーダーとして他国をけん引する存在が求められるのは政治・外交の世界だけではないし、何もリーダーが必ずしも、“今のアメリカのようなリーダー”である必要はないだろう。この時代、今の世界の中で、日本がリーダーシップをとれるフィールド、とるべき形があるはずだ。

 失われた20年。不況と円高。そして3.11――。こうした苦難を経たいま、日本は明らかに活力を失っている。日本株式会社を支えた各種産業は輝きを失い、世界2位まで登りつめた経済分野での地位も失った。かつてのような経済大国として、世界1位という意味でのリーダーになるのは考えづらい。
 だからといって「これから日本はもうダメになるだけ」でいいのだろうか。日本ができること、すべきことがなくなったわけではないはずだ。20世紀の成功体験をそのまま再現できないからといって、「もう日本はダメだ」というのは、過去にとらわれ過ぎた考えだ。20世紀型のリーダーではない、今なり、日本なりの道を模索すべきだ。組織の構成員のまとめ方、リーダーのあり方だっていろいろのはずだ。

 本作は、「求めるべき正義とは何か」を考える良いきっかけになる。そして009、島村ジョーの姿は、「そのために自らがどうあるべきか」を考える良い材料になるだろう。

 たしかに彼のように万能の、絶対的エースとしてのリーダーになることは容易ではない。だが、突出した才能があるとは言えない高橋みなみも、AKB48の唯一無二のリーダーだ。そういう形もあるのだ。
 
 そう考えながら本作を鑑賞すれば、ジョーの立ち姿にすら感じるものがあるはずだ。組織の中でのリーダーとしての地位に固執することなく、自らが信じる「成すべきこと」をまっすぐに、自信を持って追い求める彼の姿を見れば、自信を失った日本がまず何をすべきか、そのヒントが感じられるはずだ。

* * *

 ところで本作は果たしてヒットするだろうか?
 私は原作漫画の熱烈なファンではないし、神山監督のファンなので、どうにも客観的な評価ができないのだが、原作漫画を読んでいた世代は、石ノ森ファン、009ファンかどうかは別としても、少なからず抵抗があるようだ。たとえば富野由悠季監督は試写後、「59.999…60点はつけたくない」といっていた。彼は原作のファンではないと言いつつも、「知っている」だけに「60点はつけたくない」といっていた。彼に限らず、そこの抵抗感は小さくないだろう。好き―嫌い、違和感覚える―覚えない、というのは世代で大きな差があるはずだ。そこを乗り越えられるかどうか。

私は10月27日に公開されたらまた観に行くつもりだが、それは「前売り券を買ってしまったから」ではない。

2012年10月5日金曜日

人生に必要なのはパートナーであり、出会いは獲得し育てていくものだ――映画「最強のふたり」を観て

© 2011 SPLENDIDO/GAUMONT/TF1 FILMS PRODUCTION/TEN FILMS/CHAOCORP


差別たらしめるもの

 映画「最強のふたり」を観た。

 実話を下敷きにした作品だそうで、既に大ヒットしているのでご覧になった方も多いと思う。最初ポスタービジュアルを見て食指が伸びなかったのだが、Twitterで複数の人が勧めていたので観ることにした。今となっては観てよかったと思う。とても面白い、いい作品だった。

 話の筋はこうだ。

 大富豪のフィリップはパラグライダーの事故で首から下が麻痺しており、動かない。その介護役として採用されたのが、服役経験のある黒人青年のドリス。彼は失業手当をもらうため、就職活動をした証拠として、不採用になるために介護役の面接を受けたが、なぜか採用されてしまう。採用は不本意だったドリスだが、フィリップの挑発に乗り、自宅に居場所がないこともあって介護役を引き受ける。奔放なドリスはフィリップの障害にもお構いなしだが、フィリップはドリスを気に入ったようで、彼に影響されてどんどん変わっていく……。

(以下多少ネタバレします)

 本作は、主人公の2人の構図からして差別というものを意識せずにはいられない。金持ちで良識のある白人と、貧乏で粗野な黒人。辟易する人もいるであろう、ステレオタイプな設定ではある。そのフィリップは重度の障害を持っており、同性愛者も登場する。ナチスさえジョークで扱われる。差別イシューのオンパレードだ。

 言うまでもなく、差別は難しい問題だ(ことさら難しく考えよう、取り扱おうとする意識と行動こそが問題を難しくしているという指摘もあろうが)。問題として受け止めるほどに、自覚的になればなるほどに腰が引け、かえって(無自覚に)差別する結果となる。人との違い、自分との違いを単なる“違い”として、個性として受け止めるべし――などと言われるが、言うは易く行うは難し。ある言動を差別と考えるかどうか線引きは人によって異なるし、不快に感じる程度も人による。差別と認めながらも許す人もいる。一概にこうとは言い切れない部分が多すぎ、多くの場合、untouchableなマターとして取り扱われる。さわらぬ神にたたりなし、というやつだ。

 本作の魅力はドリスの人間としての魅力に尽きるのだが、彼は差別の対象となりえるものを特別扱いしない。いわゆる差別的な言葉を吐き、行動をとるのだが、彼はフィリップを特別扱いせず、自然に接している。常識的な大人であれば眉をひそめるような言動をしても、なぜかフィリップはそれを悪く思わない。その理由をフィリップは述べている。

 「彼は私に同情していない」――。

 同情と共感の明確な違いは知らないが、それは「可哀想」という感情の有無ではないかと思う。「可哀想」とは何なのか。自分を“上”に、相手を“下”にみて、それを押し付けることではないか。いくら自分が相手を「可哀相」だと思っても、相手は自分のことが可哀相だと思っているとは限らないわけで、勝手に優越感(罪悪感)にひたるのが同情だとは言えないだろうか。そしてドリスはフィリップや、その他、差別されるような境遇にある人に対して、そんな勝手な感情を持たないのである。

人間関係には様々な形がある。デリカシーが求められる、緊張感あふれる関係もあれば、気の置けない関係もある。お互いが相手に何を求めるかはそれぞれだから、人の組み合わせの数だけ、関係のあり方が存在する。
 その点ドリスは、相手に合わせて、相手の顔色をうかがって自分の対応を決めるようなことをしていない。自分のありのままを相手にぶつけている。相手がどういう状況、どういう考えであれ、また相手が自分を受け入れようが入れまいが、彼は変わらない。相手に受け入れられようとすることが必ずしも良い結果につながるとは限らないのだから、どうせなら気などつかわず、思うように振る舞えばよいのだが、そうできないのも人間の性、弱いところだ。
 
 私はドリスの素直さをとってもうらやましいと思った。おそらく自分なら、フィリップに気をつかい過ぎて、窮屈に思われ、すぐに解雇されてしまうだろう。何かにマジメに取り組むことを卑下するつもりはないが、それが必ずしも正解とは限らないのだ。彼はとても素直に、人と接することができる。彼には自分をカッコよく見せようとか、いい人と思われようとか、背伸びしようとする気持ちがない。その強さに憧れる。

出会いがないなんて嘘だ

 ところで本作のような“バディもの”は古今東西多数存在する。たとえば「48時間」、日本のTVドラマ「相棒」、女性なら「テルマ&ルイーズ」、アニメなら「TIGER&BUNNY」などがそうだろう。いみじくも今「夢売るふたり」という映画も公開されている。「ふたり」はアリだが、「さんにん」ではダメなのだろう(そういえばMARVELのヒーローにはバディものはない…アメリカ人の好みじゃない訳でもないだろうが……)。
 このように古くから「2人」の関係性をフィーチャーした作品は多い。その理由は、人は常に、信頼できる、運命のパートナーともいうべき存在を求めているからではないだろうか。

 いま結婚をする人が少なくなっているという。別にそれを咎めるつもりはないし、法律上の結婚という形式にこだわらないカップルが増えているだけかもしれない。婚姻数がどれくらい減っているか、なぜ減っているかは分からないが、もし減少が事実だとすれば、みな結婚していないからこそ、心のどこかでそうしたパートナーを求める気持ちがより強くなり、本作のような作品が一種の憧れ、うらやみの対象としてみられ、支持されるのかもしれない。

 「パートナー」が同性か異性かの違いは大きいだろうが、誤解を恐れずいえば、結婚した男女がいつまでも異性として相手を意識続けるわけでもなかろう。その意味では、同性であれ異性であれ、人は「運命のパートナー」を求めていると言える。積極的に探しているかどうかは別だ。心の奥底では、そういうつながりを、そういう関係を築ける人を求めている。それは結婚相手かもしれないし、本作のように介護者・被介護者という関係かもしれない。

 「さんにん」ではいけない。なぜなら3人になった瞬間に、自分が思う相手が、自分よりもう一人を選ぶかもしれないからだ。お互いに、相手は自分だけという状況になるには、「ふたり」でなければいけない。

 なぜ結婚する人が減っているのか、その理由はいろいろあるだろう。社会の変化に照らし合わせ婚姻制度に無理が生じている。コストがかかりすぎる。内縁関係がとやかく言われることがなくなった……。とはいえ、誰もが、「どうしても一人で生きていきたい」と思っている訳ではない。心のどこかでふれあい、寄り添うことを求めている。
 そうしたパートナーとの出会いは、自ら獲得しなければいけない。そして育てていかなければいけない。本作では偶然の出会いが2人をつないでいる。しかし、そこに至るまでに、フィリップは長年自分に注がれ続けた同情の目線に辟易しており、その状態が続くことに嫌気がさしていた。フィリップはドリスに出会う以前に、何人ものパートナー候補と会い、時間を過ごし、見切りをつけてきた。そして、冒険してみようと思った彼の一歩(ドリスの採用)が、図らずも最良のパートナーを見つけるきっかけとなった。ドリスを選んだのはちょっとした気まぐれだったのかもしれないが、その行為があってこそ、二人は出会えた。

 何も3.11以降の絆うんぬんをここで言いたい訳ではない。そもそも本作は日本でだけ支持されているわけではない。ただそうした関係を誰かと築きたいのであれば、出会いを獲得することをあきらめてはいけない。それに、「新たな出会い」にだけパートナー探しの機会を求めてもいけないのではないだろうか。既に出会っている誰か、すぐそばにいる誰かとの関係を見直し、大切にし、育てていくこと。それも運命のパートナーを見つけるために有効な手立てではないだろうか。
 「出会いがない」なんて嘘だ。「どうせ出会えない」と思っていれば、せっかくの出会いにも気づけない。既に出会えているのかもしれない。明日出会うかもしれない。その相手の存在に気づくためには、準備を怠ってはいけない。止めてはいけない。自分の心があきらめているのに、それでもビビッとくるような出会いがあるかも……なんて、あるはずがない。

 そういうことを考えさせられた作品だった。


* * *


 ところでこの邦題はどうにからなかったものだろうか。原題は『Intouchables』。英語でいえば「UNTOUCHABLE」。 ストレートな訳にするとちょっと重かったろうが、もう少し別の何かはなかったのかと思う。
 演出面では、一旦ドリスがフィリップのもとを離れるところの理由が分かりづらかった。描写がもっとあっても良かったのではないか。あとラスト。唐突にベースとなった実話の2人の画が出てくるが、肝心の本編のほうがブツリと切られた感じがした。本作で二人はどうなっていくのだろうか。やはりフィリップが言ったように、彼の介護はドリスの一生の仕事ではない、ということなのだろうか。であるなら、本作の下敷きとなった2人が今も一緒に居ることをどう評価すればいいのだろうか。たしかにドリスは介護の分野で仕事をしてきたわけではないが、作品としてのけじめのつけ方としては不満が残った。

 いずれにせよ、間違いなくEW&Fの曲が聴きたくなる。ダンスシーンでは涙がこぼれそうになった。

2012年8月17日金曜日

同性愛は悲恋か――ブーム(?)の「ゆり」作品を読む

「GIRL MEETS GIRL」の話を
読んで比較してみよう



 「ゆり」がブームだ。

 「ゆり」という言葉に対する是非はあるだろうし、その定義もさまざまなのだろうが、ともかくTVアニメ「ゆるゆり♪♪」が人気になるなど「ゆり」という言葉は広がってきている。別にこのアニメは私の好みではないし、ブームになったからという訳でもないのだが、何となくこのジャンルが気になっていた。
 ちょうどそんな時、『コミック百合姫』(隔月刊?)が半額くらいになっていたので買ってみた。


『コミック百合姫 2012年 09月号』

 パラパラとめくってみて思ったのは、一口に「ゆり」といっても「女性同士の恋愛物語」とはいえ、いろいろなタイプがあるようだ。また自分が「『ゆり』ならどんなタイプでも面白いと感じる」というほどこのジャンルに傾倒しているわけではないことだ。もともと読むマンガを絵柄で絞り込むほうでもあるので、本誌も全部は読めなかった。興味がそそられないのだ。

 しかしこれを手に取ったのは、
 「女性が同性を好きになる話」をいろいろと読んで比較してみよう
 と思ったからだった。




 思い起こせば、吉田秋生さんのこれらの作品群は昔からお気に入りだし、



 最近中村珍さんの『羣青』も腹に重たいものを感じながら、深く考えながら読んだばかりだし(
。特に登場人物が「差別と理解は似ている」「差別と理解は同じ」という言葉には考えさせられた)、



 これまた振り返れば『猫背の王子』を読んで以来、中山可穂さんの小説も好き……、



 ということを思い返すにつけ、どうやら自分が「女性が女性に恋に落ちる」という状況に強く惹かれることに気付いた。厳密に言えば「同性愛」でなければいけない訳ではなく、「悲恋」が好きなのかもしれないが、この際、そうした物語をいろいろと鑑賞してみようと思ったのだ。
……と書く時点で、「同性愛=悲恋」という図式を作ってしまっていることが分かるが、とまれ、まず読んだのがこれだ。


『オクターヴ』(秋山はる)

 これは全6巻で読みやすい。セックスの描写はあるけれど、ドギツくない。女性同士の恋愛を描いたマンガは学生が主人公のものが多いなかで、これはちょうど大人になりかけの女性と大人の女性との恋愛の形を描いていて、ほかとはちょっと違う。主人公の男性に対する感情の揺れ動きや葛藤がもっと描かれていたり、障害がもっと生まれていたりしたらいいのに、と思った。



『ロンリーウルフ・ロンリーシープ』(水谷フーカ)

 これは全1巻。絵柄がかわいく読みやすい。誕生日が1日違いの同姓同名の女性同士の恋。お互いに自分の思いを抑え込もう抑え込もうとしてたら、あっという間に終わってた感じがする。あっさりしすぎてる感じ。まぁ私が厳しいハードルを求めすぎているのかもしれないが。当初からこの話数で終わる予定だったのかどうか分からないので何ともいえないが、このジャンルでは2人の間だけで話が進んでしまう傾向が強いのではないだろうか(まだあまり読んでないうちに断言はできないが)。

 そして今読んでいるのがこれ。


『かしまし』(原作 あかほりさとる/作画 桂遊生丸)

 ちょっとトンデモな感じだが、もともと男の子だった主人公が宇宙人のせいで女の子になっちゃって……というストーリー。絵は好みで、4巻まで読了。ここに載せた5巻の表紙から見て取れるが、中心が主人公で、左右の2人の女の子との間で揺れ動く話。主人公は男の子時代から、フェミニンな感じだったようで、いきなり異性に替わってしまったことに対する葛藤はない。全巻読んで改めて総括してみるつもりだが、演出(コマ割り?)なんかがドラマティック。少女漫画的。

 最近は小説などでもこうしたトンデモ設定を前提としたストーリーがあることだし、「宇宙人のせいで」というようにギャグっぽくせずとも舞台設定はつくれたのではないだろうか。これならドラマにできそうな気がする。

 次に読もうと思っているのがこれ。


『GIRL FRIENDS』(森永みるく)

 たまたま見つけたブログで、恋愛モノとして最高とレビューしている方がいたので気になっている。まだ1冊も読んでいないが、果たして。

 あと途中まで読んでいるのがこれだ。


『青い花』(志村貴子)

 本当は有名なこれを最初に読み進めるべきだったと思っているのだが。舞台設定など、かなり『櫻の園』ぽい感じがしている。現在3巻まで読了。一通り読んでからこれも感想をまとめてみたいと思う。


「学生が主人公」が多い理由/
異性愛を検討せず同性に惹かれること

 この『青い花』などを読むにつけ思うのは(上にも書いたが)、「学生の話」が多いということだ。

 アニメを鑑賞しはじめたのだが、


『マリア様がみてる』

 これも舞台は学校だ。

 たしかに「女子校」は「女性しか出てこない」という舞台を設定する上で便利だということはあるでだろう。
 それに、主人公たちが学生や十代という作品・学校を舞台にした作品は、何も同性同士の恋愛話に限ったことではない。異性同士の恋愛を描いた作品にも多い。恋愛経験がまだ乏しいからドラマを生じさせやすいことや、誰もが学生時代を経験していることもあって感情移入もしやすいことが理由だろう。
 こんな気持ちになったことはないだろうか。好きになった人のことしか考えられず、その気持ちが永遠に続くような――。しかし現実にはいろいろな障害が起き、気持ちがふとしたことから離れてしまうことは珍しくない。そこでドラマが生まれる。恋愛相手が同性だろうが異性だろうが、登場人物の気持ちを揺れ動かしやすい世代は描きやすいのだろう。

 しかし、いくつかの作品を読んでみて特徴的に感じたのは、登場人物が男性が好きなのか女性が好きなのか“まだ”分かっていない人がいるということだった。「男性との恋愛」を経ずに「女性と恋愛」するキャラクターが存在するということ。「男性と付き合ってみて違和感を覚えた」とか、付き合わないまでも「男性を恋愛対象として考えてみたがダメだった」など“考える”という行為を経たとかいうこともなく、自然と女性に惹かれたという形だ。例えば『オクターヴ』や『青い花』がそれだ。『かしまし』もそうかもしれない。

 私は何も「女性に対する気持ちは恋愛ではなく憧れであって、最終的に男性を好きになるもんだ」と言いたいわけではない。「男性を意識してみた後でないと、女性に対する意識が本物かどうか分からない」というつもりもない。

 しかし、今後こうした作品を読んでいく上で、「恋愛感情」のベクトルが“異性ではなく”同性に向かうきっかけや過程については、(自分が異性愛者であることが実によく分かる視点だが)特に注目したい点と感じた。ここで感想を簡単に述べた作品も含めて、もう少しいろいろと読み進めて分類や分析をしてみたいと考えている。